リアルタイム反応で生きられる対話的分析の営み

制度論的精神療法(psychothérapie institutionnelle)」、「分析の consistency(一貫性)」を語る三脇康生氏においては、体験をただベタに生きるのでなく、その体験されたものを後ろ向きに*1言説化することで、メタな分析を共有する。
仕事について個人的にお話していて感じるのだが、その議論の共有は、「ひきうけの共鳴と相互増幅」という体験になっている*2。 それは、創造的な労働行為にフレームを与え合うプロセスとして、つまり対話的営みとして、一時的に成り立つ。(あらかじめ確保された“純粋な”大義で肩を組み合うのではなく。)
このような立場からは、ラカン派の分析の倫理は、そのフレームが硬直していることが批判されるのかもしれないが、私にとっては、ラカンの議論を知った後にこの議論を知ったことが、その順番が、重要だったかもしれない・・・。(さらに考察を続けてみます)







*1:「後ろ向きに」というのは、三脇氏の「前向きの想像力だけではなく、後ろ向きの想像力を」という発言(図書新聞)をもとにしている。 後ろ向きというのは、「現状をメタに分析してみる」というほどの意味だろう。 積極的な理念を口にするだけでは、「正義の味方」を演じるナルシストになってしまう。

*2:書いていて思い出したが、ジャズのセッションというのはこういうものなのだろうか(私は楽器を演奏できない)。 ■参照:「生命とはジャムセッションである」(sivad さん)