制度論的精神療法と、「去勢のフレーム問題」

 自分のまわりに組織化された世界をもつというのはそれほど単純なことではありません。 ラカンの観念は、主体の世界がうまく成りたつためには、常に最小限のシニフィアンが必要だということです。 三〇年以上にわたって続いた教育の中で、ラカンは根底にある基本的な構造を常にあらたに形式化することに努力を傾けました。 (中略)
 ラカンの念頭にあったのは、「主体にとって正常な世界を構成するための、原初的にして最小限のシニフィアンの支柱とは何か」を探求することでした。 (『意味の彼方へ―ラカンの治療学』 p.249、ジャック=アラン・ミレールの発言より)



私がひきこもりに関して考える「自分の現実を構成することができない」は、神経症圏にあり、統合失調症とは違っている。 しかし、「今この場で自分をどう組織していいか分からない」という苦しみを考えるためには、単なる慰めやごまかしではなく、「そもそも精神が組織されること」について、原理的に考察する必要を感じる。 そのために、精神分析の(特に去勢や転移の)議論は必須と考える。 【追記】: 書いてみてあらためて気づいたけど、「どうして精神分析の概念が必要なのか」ということ自体も、物質一元論やほかのアプローチとはべつの「説明の方法」を選び取ること(立場の選択)で、どうしてそれを選ぶべきなのかを自他に説明しようとすると、厳密にはよくわからない。 ひきこもり周辺で体験される欲望や苦しさを説明する方法として、今はほかに思い当たらない。


ジャン・ウリらの提唱する制度論的精神療法においては、転移や去勢のフレームが硬直するのを防ぐところに、技法の根本倫理があるように見える。 以下、三脇康生の論考 「精神医療の再政治化のために」(『精神の管理社会をどう超えるか?―制度論的精神療法の現場から』掲載)より(強調は引用者)。 【文中「ウリ」とあるのは、現在もラボルド精神病院の院長であるジャン・ウリ(Jean Oury)のこと。 ラカンの弟子、ガタリの同僚にあたる。】

 ウリによれば、患者が起こす転移の相手は、人間でも物でも動物でも場所でもいいのであり、それらの異質性がむしろ保たれることが重要となる。 ウリはこのような転移の訓練を、日常のちょっとしたことで生活に大きな意味の変化をもたらすための「弁別の訓練」と呼ぶ。 院内活動に対して患者も自発的に活動方針が話しあえるのだが、しかし決して自発性が強制されるわけでもない。 既成の活動に入ることもゆるされる。 ともかく複数の活動があることで、ある活動が自分に合わなければ他の活動にかわれば良いわけだし、なにか一つの行動パターンを身につけるような強制感が漂うわけでもない。 一種いいかげんに、しかし責任を持って漂いながら、自発性を身につけていくことが可能なのだ。 (p.151)

 ウリの話によると、ガタリがラボルドで最初に取り組んだのが、グリーユ(grille)という役割分担表を作ることであったという。 ガタリはこの役割分担表の運営に力を費やす。 ウリは、ラカンの理論を実践に用いることで、ラカンの抽象性を超え出ていたのだが、そのモーターになっていたのが、この役割分担であり、その活動の意義を根本から理解していたのが、ガタリであったのである。 (p.152)


【※この引用枠内のみガタリの発言】  既存の「通常な」秩序からの逸脱ともいえるようなシステムを創設する必要がありました。 「役割分担表(グリーユ)」といわれるそのシステムは、進化する役割分担表を作り上げることであり、各人が自分の仕事を次のようなものから把握することに特徴があります。 (1)通常業務、 (2)臨時業務、 (3)「交代」業務、すなわち誰もが特殊なカテゴリーとして専門化したくない集団的な業務(例:夜間業務の交代、皿洗いなどの交代)からなる役割分担表です。 ですから役割分担表とは、業務への個人の配属を集団的に管理・運営することができるような、二つの入り口を備えた表なのです。 それは一種、制度=ソフトに必要なランダムさを調整する装置であり、それによってランダムさを「枠におさめること」が可能になるのです。 (p.154)*1


 ガタリは、役割分担表を機能させるのは、参加者の制度論的な転移(transfert institutionnel)であるという。 ところで、制度論的な転移を、制度=ハードへのパラノイアックな転移だと考えてはいけない。 制度=ハードのなかで偉くなって威張るなどということではない。 制度=ソフトの分析が行なわれつつ何かがなされるとき、このような環境の中で、患者も治療者もその主観性が打ち立てられるのであり、その際に使われているのが、複数の転移対象をもつ分裂した制度論的転移であるということである。 (p.156)

 ところで、クラブ活動を盛んにしたり、役割分担表の運営維持に協力するウリを横目にして、ラカンはウリに、お前は本当にあんなことをすることがなにかの役に立つと思っているのか、と問いかけたという。 もちろんです、とそれに対してウリは答えた。 精神分析の部屋に閉じこもり、病院という集合性(collectif)が機能する場所からどんどん遠ざかるラカンと、集合性(collectif)の次元に踏み止まろうと努力するウリのあいだに、考え方の大きな違いができても当然であっただろう。 (中略)
 抽象的な理論立ての内で精神分析の技法を考えるラカンと、臨床の現場自体を制度論的考察の対象とするウリの違いはここに明らかになっている。 「ラカンは知的誘惑にまけて歪んでしまったんだ!」とウリは語ったことがある。 (p.165)








*1:原典は『Onze heures du soir à La Borde』(Galilée, Paris, 1980)、pp.8-10