試みていること(メモ)

ひきこもりへの単なる居直り(放置)でも、単なる強圧的な説教*1でもなく、
きれいごとだけの理想論でもなく、なるだけ客観的な情報と、規範的な公正さを目指しつつ、実際的な苦痛緩和にも役立つこと。
大局的には、本人だけで数十万人、家族も入れればその何倍かの、社会的破綻の危機であり*2、単に「苦しんでいる人を助けてあげなければいけない」ではない(そういうナルシシズムは迷惑かもしれない*3)。 自分のミッションが他者の苦痛と接点を持つ必然性を、遂行的に模索している(直接的に苦痛軽減を目指せばアリバイが確保できるのではない)。 遺棄されるしかない苦しみもあるし、私たちの生活は、日々 他者を見捨てて成り立っている(ひきこもっている本人も他者を見捨てている)。


ひきこもりは、「優先順位が見えなくなること」の極端化でもある。 だから、「本人が優先順位を決められるようになること」が目指される(ミッションとしての「本人の政治化」)。 完全主義と投げやりさの幼稚な往復から、「最も大切なこと」を臨機応変に尊重するフットワークへ。
生存のための臨床的な課題と、倫理的な論点とが絡み合って、混乱している。 大局的な、主観の状態を無視した議論(労働・政治)に取り組む前に、その「取り組む」という姿勢そのものが破綻している(参照)。 虚無とナルシシズムの苦痛に対し、説得力のある対話的な責任の指針が作りたい(というより、すでにどのように生きているのか)。
すでに社会生活を営んでいる人たちは、なぜ自分がそのようにできているのか、主観的なメカニズムの条件を問おうとしない。 「自分が成り立たせている態度は、そもそも倫理的に間違っているのではないか」という反省的な分析は、どこまでも拒絶される(うまくいっているのだから)。――このことは、ひきこもっている本人にも言える。 ひきこもることの条件に関する分析を欠いている。 「間違っている」ことと、「苦しい」こととが、踵を接している(間違うから苦しいのかもしれない)。 確保して主張すべき権理が、まだ分節化されていない。


ひきこもりを論じるために、どうしても踏襲しておかなければならない議論の雛形を作ること。 体験されている苦痛の構造や、その社会的位置づけについて、説明のプロトタイプを試みる。 (ひきこもりについての議論は、なぜかつねに、あまりにも貧しくパターン化されて終わる。ものすごく教養あるはずの人が、取材もせずにいらだたしげに独りごちる。)
ひきこもりについて先入観だけで語る議論は、公正な的確さ、的確さゆえの公正さをもたらせない。 逆にいくら体験が豊富でも、それを言葉にできなければ、やはり公正さは目指せない(途方に暮れるか、取り組んだと思ったら夜郎自大の凡庸な思い込みになるか)。 的確であることのみがもたらし得る公正さを目指す。
端的にいえば、「ひきこもりについての労働」を目指す。 ひきこもりについては、何をすれば「仕事をした」ことになるのか。 本人の思い込みやお気楽な説教は、数十万人という引きこもりの現実について「仕事をした」ことになっていない。





*1:現場的には無益

*2:孤立こそ、社会的に最も危険だ。 ▼孤立した弱者が受け得る被害については、ひとまず司法に頼るしかない。 実定法の習得はきわめて大事だ。

*3:「善意」のナルシシズムは地獄への道(『引きこもり狩り』)。 斎藤環も2003年刊『ひきこもり文化論』で、すでに「善意」への危惧を表明している(p.33-4)。