「交渉からの撤退」としてのひきこもり

ひきこもりは、労働や対人関係からの撤退というよりも、「交渉からの撤退」と言ったほうがより事態を正確に論じられるのではないか。
労働がなくても生きていられる人はいる。(金があれば)
対人関係がなくても、衣食住があれば生きていられる。
しかし、労働も対人関係もなしに生きていようと思ったら、誰かとの交渉関係においてその状態を提供されなければ無理。(自給自足であれば、現代で問題になっている「ひきこもり」ではない)
労働も対人関係も絶っているのに生きていられて、しかもその状態を維持するための交渉関係自体を拒絶しているのであれば、必要な条件の提供を誰かに押し付けているはず。(意図的にではなく、多くは不可抗力でそうするしかなくなっている。)


本人の状態をどうするかを決定する権理は最終的に本人にあるとして、しかしその状態を存続させるためには交渉関係においてなにがしかの線引きや取り決めが必要になる。逆にいうと、その交渉契約関係が継続的に運営可能なら、それ以外の一切は忘れていい。 【考えてみれば、これは社会生活を送る誰にとっても同じことだ。】


病気や障害であれば、動けなくなる(交渉関係に参加できなくなる)のは当然と見なされる(病者役割・障害者役割)。 ひきこもりの場合は、病気や障害ではないにもかかわらず、交渉関係を維持する能力が極端に低下している。 ふつうであれば、交渉能力の低下は、単に「本人にとって不利益」というだけで、見捨てられる。しかしその能力の低さがあまりに度外れていて、かつあまりに人数が膨大であれば、これは社会問題となる(それが「ひきこもり」)。 「働かなければならない」という硬直した社会規範との関係において「働け」というのは、あまりに素朴すぎる(し、現実的に有害でしかない)。 規範を押し付けるべきだとしたら、「交渉関係からの撤退」*1、その一点のみではないか。 (圧倒的に強い側から、弱い側への規範的要請だが。)


そしてその交渉関係を維持する能力の極端な低さが、数十万人規模で現れている。
規範としては「交渉からの撤退」が問題であり、課題としては、「交渉における不能」だ。 「交渉能力を高めねばならない」という臨床的課題が、そのまま規範としての「交渉に参加しろよ!」に連結している。







*1:本人が撤退する権理があるとすれば、親の側にも撤退の権理があるのではないか。 扶養の義務を負わない第三者は、要するにほとんどが撤退している。