親がひきこもってしまったらどうするのか。

冗談のように聞こえるかもしれないが、これは「対等な交渉関係」という原理的な部分を確認するためには、どうしても必要な論点になる。
実際、親御さんの一部は、金銭的・精神的に追い詰められ、倒れたり亡くなったりしている(一部は自殺と聞いている)。 「ひきこもりの全面肯定」というなら、親御さんにもひきこもる権利があるはず*1だが、その場合には誰が扶養するのか。 ▼身近な者がひきこもる行動に出たとき、それを「全面肯定」する義務は、現在ひきこもっている当事者にも課せられなければならないはずだが、なぜか本書の議論においては、「子供の立場で引きこもった者」が、特権化されている。

    • 「全面肯定せよ」という主張は、家族内や社会でのあまりに一方的なワンサイドゲームを改善するため、いったんは導入する価値があると思うが、最初から無理と矛盾をはらんでいる。 このスローガン自身が、「交渉のツール」であると踏まえる必要がある。 ▼「全面肯定」というよりは、やはりお互いの「権利」の議論に、切り替えてゆくべきではないだろうか。








*1:「子供にはひきこもる権利があるが親にはない」というなら、その不均衡を正当化せねばならない。 そこにも、考えるべき議論のネタが詰まっているように思う。