「参加」についてのメモ――象徴的、想像的

 ひきこもっている人は、想像的なレベルでは社会参加できていないけれども、象徴的なレベルでは社会に参加させられている。 (斎藤環3月6日の講演

想像的 imaginary」 「象徴的 symbolic」は、フランスの精神分析ジャック・ラカンジャーゴンで、日常的に理解されるのとは違う内容を持つ。
「社会参加できている」ことと、「象徴界に参加している」こととは、ラカンに興味を持っている人の間にも混乱がある。 「社会参加していないのだから、象徴界に参加していないということだろう」というのでは、統合失調症とひきこもりを分けて考えることができなくなってしまう。 斎藤氏はこの講演で、ふつうに言われる「社会参加していること」を想像的なレベルとして説明しており、「語る存在であり続ける」という意味での「象徴界への参加」と分けて考えている。


斎藤氏はひきこもりについて、「想像的なレベルでは社会参加できていない」というが、家族は社会的に構成されているのだから*1、ひきこもっている人も、「扶養される形で社会に参加し続けている」と理解することができる。 「自分は社会参加していない」というのは、規範に縛られた思い込み。 ▼「ひきこもっている状態をどう解釈するか」という話の以前に、すでに関係に参加し続けているという事実がある(でなければ生きていられない)。


ここで検討するべきなのは、「語る存在であり続ける」という意味での象徴界への参加と、「経済関係に巻き込まれている」という意味での参加の、ちがいと関係。 単に「語る存在である」というだけでは、扶養されながら生き延びているという、生きられている「関係の事実」を扱うことができない。


象徴界に参加しているのであれば、語る存在としての関係、つまり「公正さ」という決済的なバランス理解にも巻き込まれていることになる。 ▼ひきこもっている人は、「理不尽感」に苦しんでいることが多いが、この「理不尽」という感覚こそ、フェアなバランスを要求する「正義」の感覚であり、言葉の営みにしかないはずのもの。――ひきこもっている人は、言葉に参加してしまっている、だから理不尽感に苦しむ。


カニアンとしての斎藤環氏が繰り返し問題にする《欲望》は、言語そのものや生身の他者との交渉関係の中で、はじめて構成されるのではないか。 ▼ラカンをめぐる議論の中では、「具体的な交渉相手」としての他者と、「言語そのもの」としての他者とで、どれがどれだか良くわからなくなる。 ただ、対外的緊張を形作る「生身の他者」と、内的葛藤を形作る「言語としての他者」とは、言葉を焦点として、分離不可能に思える。――「想像的には社会参加していないが、象徴的には社会参加している」という斎藤氏の発言は、この周辺で理解する必要がありそう。


「交渉相手としての他者」は、言葉を通じて体験される。 単なる動物は、本能的な形以外での交渉相手を持たない。 それは「交渉」とは言えないはず*2


統合失調症自閉症とはまったく違ったロジックで、自由の構成がうまくいかない斎藤環氏が『ビッグイシュー第45号で語った「自由の障害」は、「現実をうまく構成することができない」という話といえる。 自由は、そのつど(プロセスとして)適切に構成されなければ行使できない。 そのプロセスは、「孤立した内面」だけで成り立つわけではない。 自由は社会的に構成される。







*1:cf. 野崎綾子親密圏と正義

*2:【メモ】ラカンは鳥の給餌行動を「贈与」の文脈で語っており、これが一部で批判されている。 ▼cf.東浩紀動物化についてのメモ