当事者性――言説構成とナルシシズム

「アカデミックな」だけの議論に関わっていると、自分のナルシシズムの暴走を止められなくなる。 言葉の努力にひっかかりがなくなって、メロメロになる。 イライラして苦しく、努力を続ける意味が見えなくなる。
当事者性は、私にとって去勢の指標なのだが、多くの場合は、当事者性はむしろナルシシズム(自分のことしか考えていないお涙頂戴の不当な権利要求)と見られている。
ある人物の言説努力が構成されるときに、当事者性とナルシシズムがどのように担保されているかは、つねに気になる。 第三者としてのみ語ろうとすることには、つねに本人の当事者性の抑圧と(それによる)ナルシシズムの確保がある。 不当なナルシシズムの構成に、強い怒りとシラケを感じる。 「何を言っても、どうせカッコつけてるか、知的好奇心だけだろう」