「専門性」メモ 1 【2】 【3】 【4】 【5】 【6】

  • ひきこもり問題においては、「専門家を養成するプログラムがないのだから、私自身も含め、専門家はいないというべき」斎藤環)。
    • アイ・メンタルスクールの施設は、行政に認知されていなかった。 事業としての公共的価値を認知されれば、そこに免許・許認可が発生し、行政にも監督権限が生じるが、「ひきこもり支援」は、そのような位置付けになっていない*1。 支援業界は、いまだ各支援者の無手勝流の時代。
    • 「誰でもチャレンジできる」ような、少なくとも「努力目標」が、公開された専門性の基準として設定されるべき*2。 「できる人はその人が勝手にできるのであって、ほかの人は誰も真似できない」「訓練の方法も分からない」というのでは、全国的な、制度的な支援の方策は立てられない*3。 民間の孤立した試みがあればそれで充分というのも一つの立場だが、数十万人規模の現実に対応できない。 【「対応するべきではない」というのも一つの立場だが。】


  • 一般論として、「このジャンルにおいては、《専門性》はどのように構成されるべきなのか」は、まさに公共的な問いと言える。 専門性を期待される集団が、みずからの専門性について再帰的に徹底的に検証しないでいられるだろうか。


  • 「医療の対象にならない」とすれば、「医療枠では専門性が構成されない」ということ。 引き受けることを志した人間が、みずからの責任において専門性の指針を標榜しなければならない。 その専門性の根拠は、それぞれの「思想」にしかないように見える。
    • 思想は、(違法行為の指南でもないかぎり)誰がどう指導してもよいので、「それぞれの思想の専門家」はあり得ても、「ひきこもりの専門家」が確定できない。 【「ひきこもり論の専門家」は、「思想史の専門家」のようにしてあり得るだろうが。】
    • 「家を出たほうがよいのか、そうではないのか」といった最も基本的な点についてすら、自称「専門家」同士の意見が食い違う。


  • 医師・臨床心理士精神保健福祉士社会福祉士保健師などであること(既存社会で承認された諸資格)は、ひきこもりについての専門性を(それだけでは)保証しない。 なぜなら、それぞれの有資格者を養成する既存プログラムには、「ひきこもりの専門性」に特化された訓練がないから。 【何をもって「ひきこもりの専門性」とするのか、というコンセンサスがない。】
    • 既存制度で保証された専門資格は、インフラ整備および支援事業遂行にあたって必須であることは間違いないが、資格を取得しさえすれば「何が専門性であるべきか」の問いが消失するわけではない。 遂行するべき仕事は何なのか、そのために必要な専門的訓練は何であるのか、という《問い》――専門性の根拠を問い続ける再帰的な自己検証――は、残り続ける。 ▼「専門家養成のプログラムがないので、専門家は居ない」(斎藤環)という意見は、制度的手続きの問題として真剣に受け止めるべき。
    • 「経験当事者だから専門家である」というわけでもない。 経験当事者はよく支援スタッフを志すが、経験者であることが良き支援者であることを保証するわけではない*4




*1:参照:「ひきこもりの宿泊型民間支援施設はほぼ野放し?」(hotsuma氏)

*2:参照:『共同生活施設のルール』(工藤定次川又直河野久忠

*3:これが、斎藤環氏の主張のひとつの骨子だったと思う。

*4:不登校・中退の経験当事者であり、ひきこもりの対人支援を10年以上務めてきた金城隆一氏は、「自分の不登校などの経験」について、こう語っている(大意)。: 「自分の経験に引き寄せすぎた勝手な想像や感情移入につながるので、支援側に回るにはかえって邪魔になることがある(役に立たない)」。 ▼参照:「金城隆一さん インタビュー」(『論点ひきこもり』)