「終わりなき再帰性」と、アイロニズム

日常・共同体・アイロニー 自己決定の本質と限界』 p.275-6 宮台真司氏の発言

 未規定なものを前にすると足がすくむというのは、私にいわせれば「幼稚園児の思考」です。 規定可能なものを徹底的に思考しつくした人間は、それゆえにこそ未規定なものに開かれ、そこから動機づけを獲得するのではないでしょうか。 規定可能なものしか前提にできないとする臆病な発想こそが、私たちを様ざまな錯誤や誤謬へと導くのです。
 近代社会においては、内在と超越を、かつてのようなかたちでは論じることが許されません。 なぜならば、近代社会では「終わりなき再帰性」によって、どのような外部も内部化されるからです。 言い換えれば、どこかに屈折したアイロニストがいるという話ではなく(笑)、《世界》自体をアイロニー――全体の部分への対応――として見いだすのです。
 「終わりなき再帰性」によって、超越も外部も全体も非日常も宗教も、排撃はされないものの、効力を奪われて無害化されます。 ウェーバーの「脱呪術化」や「世俗化」の概念は、終局、このことを述べています。 すると奇妙なことに、「終わりなき再帰性」のゲームに勤しむ私たちの営みが存在するということ自体、端的な未規定性としてあらわれてきます
 ウェーバーも晩年はニーチェの影響を受けて、そうした「ポストモダニスト的境地」に達していたというのが、山之内靖先生の結論です。 同じくニーチェの影響を受けた現代思想現代社会学が20世紀末までに到達したのも、ほぼ似たような場所です。 もちろん私が依拠する社会システム理論も、そうした場所を完全に共有しています。
 ポストモダンといいましたが、かつてのような意味での超越や伝統や本来性――近代の外――があり得ないという認識を出発点にしていることに注意してください。 近代社会では、超越も伝統も本来性も、再帰的な生成物です。 すべての外部は内部であり、全体は部分です。 だから私たちはアイロニズムというポジションを手放すわけにはいきません。
 アイロニズムが、脱臼によって消沈したシニシズムだと誤解されるのは、残念です。 むしろ脱臼による消沈ではなく、「不可能だ? そんなことはわかってやってんだよ、猪口才!」というポジティビティ(確信)こそが奨励されているのです。 先のようなシニシズムは、子どもっぽいロマンチシズムを断念しきれないがゆえの反転的ニヒリズムです。

「何を選んでも、負け戦の凡庸な消化試合」。
「おまえとこの世との闘いにおいて、この世の側に立て」(カフカ