「事後的な分析」という、決定的な要因

事後性の概念を、「成功者の鏡像的自己確認」、つまりナルシスティックな耽溺(自尊感情の獲得)のことだと理解している人が多い。 「すべて終わった後に、うまく行っている自分に気付いて悦に入る」、つまり「うまく行ったことは事後的にしか理解できない」と。
これは、人間個人の社会化を、マルクスの商品論で理解することだといえる。 「商品は、売れた後になって初めて商品であると確証される」。 人間の社会的行為(social action)も、相手にそれと理解されて、象徴的な誕生を待って、初めて社会的=人間的であり得るのであり、さもなくばそれは「社会化されていない」、つまり「人間ではない」営みなのであると。
しかしこれでは、遂行=推敲される労働過程は、鏡像的成就をしか目指していない。 最初から疎外されている。 ▼プロセスとして実現される分析の労苦は、ひとまず「徹底的に考えてみる」ということでしかない。 どのような結果が出るかは、「やってみなければわからない」。 事前には思いもよらなかったような、グロテスクな結果になるかもしれない。 そのような結果になるかもしれないことまで含めて、容赦なく分析を遂行するところに、分析努力そのものの公共的性格がある。 事前に想定された「公共性」の理念を裏切ってしまうかもしれない徹底性にこそ、分析という労働行為の公共的性格があるのであって、鏡像的な成就を目指すものは、ナルシシズムを目指すエゴでしかない。


また、賭けの要因がなく、どんなありようをしても「事後的には承認される」のであれば、それはニューサイエンス系の「どんな君でもいいんだよ」でしかない。 「社会に出さえすれば承認される」とか、「ありのままでいい」など。 現実には、もちろんそんなことはあり得ない。 現実にはあり得ない承認ロジックを口にし、それによって自分のアリバイを得ているとしたら、そこには独り善がりがある。 ▼「万能の承認ロジック」を口にする人間は、その「絶対に正しいはずの言い分」を主張することにおいて自分への承認を無条件に押し付け*1、「万能の承認ロジック」を認めない人を承認しない(自己矛盾)。 「万能の承認ロジック」を批判する者は、恫喝されかねない。







*1:「肩を組もう」を押し付ける暴力の下品さ