「支援者としての欲望」

斎藤環

 医学生として最初は統合失調症に魅せられていた。 今はひきこもりを専門にやっているが、どうしてなのかよくわからない。 先生だった稲村博の問題*1、ひきこもりについて出した本*2が自分の唯一のベストセラーになったことなども「きっかけ」だが、なりゆきで背負い込んで、惰性でそれが続いているだけという面もある*3。 「使命感」というわけではない。



斎藤氏は「ひきこもりには欲望がない」と言い、私もそう考えてきたが、それは「日常性に対して欲望がない」ということであり、再帰性=懐疑の枠組みの狂暴な維持において欲望をすでに生きているとも言える。
日常性への、あるいは何であれすでに欲望の枠組みを生きている人は、自分がなぜその欲望を生きていられるのか自覚していないし、そこを反省的に問い直すこともしない。
たとえば経済学やリベラリズムの議論に熱中している人は、その議論に夢中になることにおいて欲望を生きているが、その欲望の当事者性そのものを話題にされることは多くの場合生理的に嫌悪される。 当事者発言というものはほとんどの場合「自分の個人的な苦しみを吐露するだけの露悪趣味」であり、それへの嫌悪と同一視されてしまう。
しかし私が考えているのは、誰であれ欲望の枠組みが維持されているということは、そこに継続的な「信仰と似た枠組み」が維持されているということ。 私はその信仰=欲望の枠組みが維持されている構造そのものを問題にしている。 それはある意味でナルシシズムの構造を問題視することであるから、そこに生理的嫌悪も出るのだろう・・・・。
ひきこもり支援者は、「若者を社会復帰させよう」という自分のミッションとそれに賭ける自分の欲望を疑いもしないことが多いが(そしてそれは大変なエネルギーを要する事業を推し進めるのに必要な要素でもあるのだが)、そもそも支援される側の本人の欲望が明らかになっておらず、家を出たいのかそのまま死にたいのかさえよく分からない事情で、いったい何が「支援」にあたるのか、そこのところから反省的に問い直す姿勢を持たずにいられるだろうか。 支援事業は分業制だから、そうした反省を持たずに受け持てるセクションがあることは間違いないが、支援の原理をなす部分で対話的な検討を重ねるためには、「取り組んでいる自分の欲望」の部分(「自分は一体何をしようとしているのか」)で分析的な姿勢を持ってもらわなければ話にならない。
斎藤氏はその意味で、カッコつきの“支援”に関わる自分を、ということはそこに関わる自分の欲望を問題化し――それは精神分析の枠組みそのものだろう――、単に投げやりになるのではなく、反省的に問い直している。 斎藤氏自身にも答えが出ているようには見えない。


ひきこもっている人はどうして自分が引きこもったか分からないが、支援者の側も「どうして自分は支援を志しているのか」が分かっていない*4。 支援する側にとってもされる側にとっても、「確信的原動力」と「繊細な自己検討」の両立が課題になる。 そこで問われているのは、いずれも「欲望」である。
支援される側がみずからにおいて活用できる推進資源は、狂暴な再帰性の枠組み以外ないように思われる。 いっぽう支援者の側は、再帰性がそのまま推進力の減退につながりそうな恐怖を感じる。 だから防衛反応として再帰性や自己分析を拒絶するのではないか。





*1:不登校児童への「治療」

*2:社会的ひきこもり―終わらない思春期 (PHP新書)

*3:斎藤氏は、あるインタビューで「生きる動機づけは何ですか?」と訊かれて、「惰性と忙しさ」と答えている。

*4:場合によっては、支援欲自体が目的をスポイルする。