- 自他への根源的懐疑と、底の抜けた過剰適応との不毛な往復。
- うかつに順応して引き受けたらまずい、という恐怖。 「巻き込まれたら最後、過労死まで追い込まれる」*1。
- 懐疑がネックなのだから、何百億円かけようがハードだけあってもダメ。 取り組み指針に関するソフト面が鍵。
- 社会生活は、トラブル以外ではあり得ない。 そんなものを支え続けるためには、懐疑以前の根源的執着が要る。
- 無意識的な信仰や主意主義が必要だが、レディメイドな指針を疑う無限後退しかない(カルト化した懐疑)。
- 過激な心理的・政治的脆弱さゆえ、うかつに投げ出されれば「間違った指針に過剰適応する」しかない。 労働組合的な人間関係も、疎外の温床になる*2。
- 私自身を考えると、症状の社会化(症状を社会的に生きること)であって、「症状を治す」とか、「症状を無条件に全面受容されること」ではない。 症状に「取り組むこと」であり、それに取り組むこと自体が症状的実存であり、それを通じて社会的生を生きること*3。 倫理的指針との関係で症状を、その社会化を考えること。
- 動機づけそのものが失われている状態なのだから、「引き受ける」というモチーフをそれ自体として問題化しなければ話にならない。
- 斎藤氏は「仲間ができるまで」を自分の支援ミッションとしているが、その「仲間」内にも強烈な政治的軋轢がある。 【参照:「個別社会(中間集団)」】
- 懐疑に監禁された無力な怒り。 それは他者にとって異物でしかない。
- 関係性とコミュニケーションが対立する(斎藤環)としたら、必要なのは関係性(固有性)だろうか、コミュニケーション(匿名性)だろうか。 リアルな関係性(固有性)における動態的=分析的な関係構築は必須に思える。
- 一般の対人関係は、属性やルーチンに自分を閉じ込めるものでしかなく、「呼吸として取り組む」*4という要因がない。
- 震災のときに味わった、「自分の肺で呼吸している」という感覚。
- あれは、《日常》からの開放であり、お互いの関係に創意工夫が必要になったことを意味する。 関係を規定するメタレベルが崩壊し、メタレベルをそのつど生産しなければならない環境に置かれた。
- 支援する側が「親」「カウンセラー」「支援者」といった役割に同一化するだけなら、被支援者はそのメタレベルを「拒絶する」か「利用する」かしかない。 これでは「関係性」(固有性)の動的構築にならない。
- 「欲望の道」*5
- 家に居続ける(しかない)なら、家族と交渉する必要がある。
- 家を出ても、過酷な交渉環境が待っている。 「順応」するのではなく、「交渉」する。
《共有》の形式と作法が問われているのだが、「懐疑を動的に共有する」ことは不可能だろうか。
関係性を柔軟に生きる責任と権利は、もちろん被支援者の側にもある。