ICC オープニング・シンポジウム: 「ネットワーク社会の文化と創造」

サイト左側のところから、動画でシンポジウム全編を視聴できる。
めっちゃおもしろい。


ひきこもりに関しては、54:40 あたりから、それ以後のやり取りなどがキモ。 キーワードは再帰性。 ▼すでにinflorescenciaさんが文字起こししてくださっているが、自分のためにあらためてメモ。

  • 斎藤環 (1:01:45〜)
    • 自己言及ブーム → 社会の心理学化・心理の社会学化 【患者さんが自己解説を始めてしまう】
    • 内省の過剰が社会性の回避につながる。
    • ひきこもっている人は、カルトには絶対行かない。 自分がカルトだから。
    • フロイトのモデルでは、自分の問題の所在を意識化できれば症状は軽減する。 しかし今は逆で、問題意識が高まれば高まるほど問題が大きくなってゆく。 勉強して、病理に詳しくなればなるほど治らなくなってゆく。
    • それゆえ課題はむしろ、「再帰性のサイクルをいかに止めるか」になる。 → 《症状化》*1がキーワード。 ▼強い主体を回復しないで「まったり生きる」ための方法論として、オタク的な文化スタイル(特異なセクシュアリティのあり方)を提案したい。
    • ポストモダン的な再帰性が支配するセカンド・モダンにおいては、主体に過剰な負荷がかかる。 多くの人は受け止めきれない。 再帰性の徹底に相当する部分を担うのはごく少数の人間たち。 あとの者はまったりしろ。 ▼大半の人間には再帰性の徹底よりも、むしろある種の「診断」を下し、「症状化」を肯定した上で再帰性を止めるほうがいい。 「お前らオタクやっとれ、そのほうが問題がなくてよい」――と、エリートたる斎藤環がジャッジした。
    • このような方向性は分野を問わず出てくるが、これは「デモクラシーの危機」といえる。 近代の成熟とは、政治から自由になった人間が再度政治に参加意欲を示すこと、すなわち「選択」に関わろうとする強いオリエンテーション(方向づけ)を持つこと。 「選択に関わるのは少数の人間でいい」というのは、近代の本義に反する。 ▼自分たちが乗っかっているプラットフォームやアーキテクチャが何なのかについては、「理解希望者へのアクセシビリティを保てば良い」という考えがあるが(レッシグ)、やや疑問が残る(アクセスがほとんど起こらない可能性がある)。 これは政治的には重要な話。
  • 斎藤環 (1:21:20〜)
    • じっさいに強い再帰性を生きているのは、制度的なエリートではない。 エリートはむしろ再帰的には考えていない(主体としては立ち上がっているから発言力があるが)。
    • 再帰性に苦しむひきこもりは、いわば「過剰な正常さに苦しめられてしまう」状態。 ▼自分に対しても自己愛で曇らされない仮借ない判断をしてしまうので、どんどん自分を追い詰めてしまう。 もっと、自分に対して甘い考え方とか、自己中心的な考え方をすればいいのだが・・・
  • 藤幡正樹 (1:51:05〜)
    • 「自己言及の一つのスタイルを提示することは、この国では意味があると思っている」
    • 斎藤さんが、「厳しく自己言及することでより病気がひどくなる」と言っていたが、自己言及には方法が必要だと思う。 マリファナをやるときに、宗教的な背景があれば「やり方」を教えてくれる同志が居るが(居ないときにはやってはいけない規則がある)、今の時代はみんな「勝手にやっている」からおかしなことになる*2。 本当はやり方を教わるべきだと思う。 ▼僕は自己言及はすごく危険なことだと思っていて、特に言葉でやると危険だと思う。
    • アーティストがメディアに映る自分に自己言及する際には、リテラシーが必要ではないか。 【→「自己言及のリテラシー
  • 斎藤環 (2:09:50〜)
    • ヨーロッパのアーティストにはメタレベルがあるというが、それだけでは作品は作れない。 オブセッションがどこにあるか。 その自分のオブセッションに対してどこまでメタを維持しているか。 ▼情報がフラット化(Google化)した世界、つまり「再帰性の回路が広がった世界」において、「アーティストにとってのオブセッションをどうキープするか」*3
    • 藤幡さんへの質問は、「答えづらさの部分」を期待した。 つまり《症状化》ということ。 ▼言語ゲームの中で出会う再帰性(自己言及のパラドックス)はきれいだが、ネットワークの中で生じてくる再帰性には、どこかしらで得体の知れないもの(「第三の審級」、超越論的なもの)にぶつかる可能性がある。 そういった「根拠付けの難しいもの」が析出してくる回路としては、ネットワークは使いようがあるのではないか。【不気味なもの=超越論的なもの】
    • (2:17:25〜) 《文明》とは、生存のために欠かせない合理性。 いっぽう《文化》とは、生存に欠かせない非合理性。 最近は前者ばかり目立つのが気になる。 ▼「最新テクノロジーを使ってわけのわからないことをする」という活動が持つ批評性。 「メタレベルとしてのアート」。 ▼もちろん、《文化的なもの》ばかりが突出するのも問題がある。 文明と文化とが相互に批評し合うような形で発展するのが健全なんだろう。
  • 藤幡正樹
    • 「学校でアングラをしなければならない」




*1:この場合の《症状》は、ラカン派のジャーゴンと考えたほうがいい。 最近の『ビッグイシュー』往復書簡が、この辺りの話をしている(「信仰≒症状」)。 あるいは『家族の痕跡』でも、「価値観≒症状」と語られている(p.171)。 ▼この考えに従えば、症状化を回避しようと徹底的に合理性を追究すれば(再帰性はその極限)、その強迫的探求自体が「症状的な営み」と言える(「合理的なものを探求するという非合理な営み」)。 ▼問われているのは「症状のスタイル」であって、「症状の根絶」ではない

*2:藤幡氏はここで、「自己言及」を「マリファナ吸引」に喩えている。 魅惑的ではあるが、非常に危険な行為・・・。

*3:ここで斎藤氏は、オブセッション(強迫観念)の解消を「まずいこと」としている。 オブセッションの支えと導きがなければ、アーティストは作品を創造することができない・・・。