再帰性をめぐって

ひきこもりに関連する読書会チャット斎藤環さんのイベント発言などを通じ、再帰性という概念が重要に思われてきた。 ▼先日のイベントで配っていただいたレジュメで少しだけこの話に触れてみたので、ほぼそのまま転載してみる。

  • 強迫観念の枠組みとしての再帰性―――“必然性”の確認強迫
    • 無限ループ化する再帰性:「そのつどそのつど原理的に一からすべてを選び直さなければならない」という、終わらない自他検証の強迫化。 合理的必然を追求する検証行為自身が不確実性を高めてゆく。 「再帰性の底が抜ける*1」。 ▼職業(やりたいこと)や中間集団について、「何を選んだらいいのかわからない」。 厳密に選ぼうとすればするほど分からなくなる。


  • 「ひきこもりは、状態像そのものへの嗜癖」(斎藤環
    • 「ひきこもりを抜け出す理由」と、「依存症をやめる理由」は似通う。 その状態は苦しいし、放置すれば死に至るかもしれないが、逸脱とされる状態を抜け出て「社会復帰」しても、そこには地獄のような生活しか待っていない。


  • 再帰性の苦しさから抜け出すスタイル
        • 「オタクになればいい」(斎藤環
        • 「症候を生きる」(ラカン
    • 自分の選択を正当化してくれる「信仰の対象」や「大きな物語」はなく、再帰性そのものを無化する「依存症」は破滅でしかない。 ▼事後的に発見される無意識的選択において、我々はすでに再帰性(自己検証)のループを脱している(ことを発見する)。 「生きてしまっている症候」を再帰的に選び直すこと。
        • → 「“解決する”時点はない。取り組みが続いていれば良い」という指針



*1:この表現は、知人が教えてくれた。