比喩としての、「不潔恐怖と洗浄強迫」

最近お邪魔するイベントや講義では、ひきこもりの状態を「不潔恐怖と洗浄強迫」になぞらえ、次のように説明している。

 ひきこもっている人で、たとえば2ヶ月以上お風呂に入れなくなる人がいます。 それは外部から見ていると、「清潔観念のない人」に見える。 でも逆なんですね。 この人は、一旦お風呂に入ってしまうと、3時間以上も体を洗うのをやめられない。 洗いすぎて体から血がにじんでいるのに、「まだ汚れているのではないか」という強迫観念に取り憑かれて、洗うのをやめられない。 ▼お風呂に入るとこのどうしようもない強迫行動が始まってしまうため、それが苦しすぎてお風呂に近づけなくなってしまうのです。 つまりこの人は、ずっとお風呂に入らない不潔の極みのような状態にありながら、頭の中は完全に「清潔になること」で支配されている。 元気な私たちは、体に洗い残しがあっても平気でいられるルーズさを持ち合わせているために、毎日お風呂に入れるわけです。 ▼それと同じように、ひきこもっている人は、外から見ているとあまりにルーズで、社会的に正しく生きようとする観念が欠落しているように見える。 しかし、まったく逆です。 「きちんとしなくてはならない」「逸脱してはいけない」と思い込みすぎ、それが強迫観念化しているために、逆に社会生活にまったく近づけなくなっている。 逸脱を恐れるあまり、逆に逸脱の極みにあるわけです。 ▼「あの人は異常なんじゃないか」という周囲の差別的な目線は、もちろんこうした強迫観念をますます強めます。 本人が「異常じゃないか」と意識すればするほど、どうしようもなくなってゆく。