「再生産は長く続く?――アルチュセール・マラソン・セッション」パネラー参加

山田潤さんと初めて言葉を交わせた。 拙著を読んでくださってて感激。 ▼「働いてて一番苦しいのは、休み時間」 「最悪の疎外要因は、単純労働ではなく人間関係」 「だから若い人は、労働組合のある職場を避ける」といった私の話には、抵抗を示されていたように思うが・・・。 孤立を志向する若者は、もちろん弱者化する。

 ひきこもってるとき、家の外を歩く「ネクタイを締めた人たち」が異様に見えた。 まるで何かの宗教信仰者のように。 ジジェクアルチュセールを引いて、「形式を踏襲することが信仰を作る」と言ったが、私たちは社会生活において、無自覚に形式を踏襲し続けることにおいて信仰生活を生きているのではないか。
 社会生活は危険に満ちており、何が起こるかわからない。 こんなにも不確実な賭けを営み続けるというのは、それ自体が信仰生活の継続ではないか。

このあたりの話をしたときに、大中一彌さんが返してくださったコメントが興味深かった*1。 あと、あまりご発言を聞くことはできなかったが山家歩さんの語りからも刺激を受ける(「弱さ」についてなど)。


西川長夫氏が最後におっしゃった「老人のひきこもり」は、思春期心性の継続による「ひきこもり」とは事情を異にすると思うが、「社会的行為の喪失」という点からは、やっぱり検討すべきだろうか。


私はこのセッションでは、もちろん「理論は分からないが現場の実情を少しでも正確にお伝えする」という役目だったと思う。 アルチュセールに言及した私について、ある方から「サービスしすぎ」というご批判もいただいた。 ▼私は、当事者や現場の言葉の貧しさに苛立ち、そこから少しでも説得的な言葉を立ち上げようとしているが*2、それは「あるアカデミックな言説ジャンルを選択して専門家になってしまう」ことと同義だろうか。 自分の当事者的葛藤を繰り込んだ語りを模索することは無意味だろうか*3。 同世代の優秀な理論家の方々に強い刺激を受けつつ、「どういう言説努力をするのか」「理論とは何だろうか」みたいなことをしきりに考える。 言説枠組みの選択は、個人的な政治的決断なのだと思う。



*1:晩年のアルチュセールの様子や、「(ひきこもりは)異教徒ではなく無信仰者ではないか」など。

*2:山田潤さんの言説は、むしろ「アカデミズムを脱し、現場的なものへ」という方向なのだと思う。

*3:そこで私が方法論的に持ち出すのは、いつも精神分析だが・・・。