「自由を失う病」

斎藤環氏は、精神病理学者・臺弘(うてな・ひろし)氏が統合失調症を「自由を失う病」と表現したことを挙げ、これを「ひきこもり」の事情と対比している。 以下は、『ビッグイシュー』第45号の斎藤氏の発言より(p.16)。

 ひきこもりは、動くための条件は問題ないのに、動けない。 何が障害なのかというと、自由が障害されているとしかいいようがないわけです。 そういうエッセンスを極めていくと、ひきこもりこそがまさに「自由を失う病」。 統合失調症に関しては、今後精神薬理や脳科学のレベルで新しい治療薬が開発される可能性はある。 でもひきこもりに関しては、そういう期待は一切できないわけですよ。 障害部位を特定できない、ただ自由が傷害されているとしかいいようがない。

以下は私の意見。

「不自由」の事情が不安定就労・精神疾患などの既存枠組みに還元できるなら、ひきこもりの事情を「自由を失う病」と名付けて特別枠で検討する必要もないはず。 私は斎藤氏に同意しつつ、「ひきこもり」に特有の不自由事情について分節化する努力をしているが、ひとまずは問題を腑分けする必要がある。 「社会恐怖」や「不安神経症」などで切り分ければ充分なのか、それとも「ひきこもり」という状態像に特有の不自由事情があるのか。 また、政策レベルの支援が起動するために、一定の問題枠を構成する必要があるのか。 いずれにせよ課題は、知的好奇心にとどまるものではなく、具体的に「自由度を高める」ことによって、苦痛を緩和することにある。 ▼最高の命題は「苦痛を緩和し、自由度を高める」ことであって、さまざまに検討される社会的選択肢は、すべてそのためにある*1就労や社会復帰も、その選択肢の一つであると考えたほうがいい

    • ここで検討されているのが「自由」の問題である以上、苦しんでいるとされる本人(“当事者”)の自由だけでなく、周囲や公共圏との関係を考慮せざるを得ない。 誰かの自由は誰かの不自由。 ひきこもっている個人の自由は、他の人間たちとの緊張関係の中にある。 ▼ひきこもりの苦痛緩和に利用できるインフラは、現状では「心理」「医療」が中心だが、苦痛の枠組みが「自他の不自由」にあるとしたら、課題は「政治」や「交渉・契約」のレベルにもあるし、むしろそちらのフォーマットから他の要素を再検討すべきではないか。
    • 「閉じこもり続けること」「自死」さらには「ひきこもりの親をやめること(見捨てること)」なども、検討すべき《選択肢》になる。 ▼あらためて問われるのは、「あなたはどうしたいの?」*2であり、ひきこもりはそこで「最弱の交渉主体」として立ち現れる。

体験されている苦痛や不自由について、既存の社会的枠組み(インフラ)で対応できる人、あるいは自力で意見主張や行動を起こせる人は、すでに政治的な交渉主体として軌道に乗っているから、新しい枠組みでの検討を必要としない。 逆に言えば、新しく検討されるべき「ひきこもり支援」の課題は、「社会復帰させること」ではなく、「政治的な交渉主体になってもらうこと」、あるいはそのための環境整備と言えるかもしれない*3。――「政治的な交渉主体にならずに生きてゆくこと」は、許されるだろうか。





*1:ひきこもりに特有の不自由や苦痛について検討することは、曲りなりに社会参加できている方々の苦痛についても、ヒントを提供すると思う。 たとえば経済的要請と規範的要請を峻別することは、葛藤を整理するのに役立つ。

*2:ただし、この問い自体が不自由度を増す凶器になり得る。 → 精神分析

*3:何が不自由であり、何が不自由でないかは、本人が決める。