議論の出発点

「ひきこもりは、その状態像に対する依存症的な状態である」と言ったとして、それは「答え」ではない。いわば「議論にアタリをつけてみた」ということであり、そこは議論の出発点であって、「では依存症とはそもそも何なのか」ということは、よくわからない。「依存症である」と言ったところで、それによって「依存症治療プログラム」的言説が自動的に作動するわけではないし、そんなことを許してはならない。「よくわからないままに考えてみる」、その思考作業の「アタリ」として、とりあえず「依存症に関係があるのではないか」と言ってみる。そこで自分が何を意味しているのか、そこからどんな議論の源泉を突き止めることができるのかは、それ以後の課題であって、そこは出発点なのだ。▼ことほどさように、「医療的カテゴリ」およびそこから自動的に出てくる「治療プログラムの連鎖」は、≪私の試行錯誤を滅殺するトラウマ的暴力≫として受け止められている。コミュニケーションを阻害=疎外するものとしての医療主義。当たり前の会話の中にすら「医療主義」がちらつき、私の発する言葉のすべては「診断」の対象でしかなくなる。「あなたには〜〜の症状があるから、○○だ」――身体ではなく、心の問題にこれが言われてしまうこと。▼答えを共有するのではなく、出発点を共有し、一緒に穴を掘り下げてゆくこと。答えを共有するのではなく、よくわからないままの試行錯誤を共有すること。相手の断定を、「答え」としてではなく、「出発点の再措定」と受け止めること。
ナマのままの剥き出しの苦痛と傷つきの言葉を、ではそのままで生きればいいだろうか。当事者の多くは、「知的な会話」を嫌悪する。知性は、「ナマの感情」に対する冒涜と映る。ではしかし、「診断」や「知性」という社会的な枠組みは、運用価値がないのだろうか。「答え」としてではなく、「出発点」としてなら*1、議論と活動を共有するための枠組み(あるいはテーブル)として、そこには分節価値があるのではないか。



*1:あるいはその「出発」を可能にする「二次的な症状の緩和」のためなら