「受苦者と連帯」

大澤真幸氏が山之内靖氏にあてた手紙*1に紹介されていたエピソード:
あるシンポジウムの冒頭、姜尚中氏が石原慎太郎氏の「三国人」発言に「怒髪天を衝く」勢いで激怒する発言をし、会場が一気に緊張する。ところがその後の参加者たちの発言はグダグダだった。それについて大澤氏:

シンポジウムの後半が弛緩したものに堕してしまった理由を理解するのはそれほど難しいことではありません。シンポジウムでは、沖縄や在日朝鮮人が、グローバル化した資本主義の世界システムの中にあって、周辺的なポジションに置かれた犠牲者として言及され、さらにその犠牲者たちに、こうしたシステムを革命する潜勢力が託されました。しかし、こうしたことを語っていたのは、言うまでもなく、主として、日本の大学の中で安定した地位を得ている研究者たちです。要するに、自分自身は、安全な場所に立って、犠牲者たちに同情し、彼らに理想を投影することの欺瞞性が、議論を弛緩しきったものに見せていたのです。言語行為論の用語を使えば、これは執行的矛盾の一種と見なすことができるかもしれません。言い表された内容と、言表行為そのものの発話内効力(の含意)の間に、矛盾があったわけです。このように考えると、姜さんの発言にのみ、「アウラ」が宿っていた理由も容易に理解できます。

ただしこの手紙の最後では、「《当事者にしか分からない》という主張は孤立化を招く」(大意)という危惧が表明されている。*2
→ 当事者論に、言語行為論を導入する可能性。





*1:再魔術化する世界―総力戦・“帝国”・グローバリゼーション』内

*2:現場に分け入り、そこで人間関係を築いた研究者が、当事者的な怒りを抱くことはあり得るのではないか。 だとすればそれは、「執行的矛盾」とは言えないのではないか。