《両義性》――籠絡と協働

時間的にも空間的にも社会全体が労働のもとにおかれている」というエントリーで文章を引用させていただいた廣瀬純さんより、メールを頂きました(ありがとうございます)。
許可を得て、一部を転載させていただきます。(強調引用者)

ぼくが「闘争の最小回路」と呼びたいのは、まさに、上山さんが下のように書かれるときの、社会的個人という存在様態の両義性です。

 僕としては「時間的にも空間的にも社会全体が労働のもとにおかれている」という事情を、「だから私は孤立しているようでも、生きているだけで社会に巻き込まれているのだ、すでにして他者との関係の中にあるのだ」と肯定的にも読み取りたい。

否定的なものにはすぐさま肯定的なものになる潜勢力があり、その逆もまた真であり、この意味で、否定的なものと肯定的なものとは、ひとりひとりの社会的個人において、小さな回路を形成しているということです。ぼくが、「闘争の最小回路」という文章のなかで書きたかったことは、ポストフォーディズムマルチチュードの闘争というものがあるとすれば、この最小回路から出発する以外に他にないということです。

それへの私のお返事。

ああ、そうでしたか!
「労働中も私生活も、生活時間のすべてが労働のもとにおかれている」という認識は、往々にして単に「資本(帝国)への批判」としてのみ語られる。でも私はそこで、「逆に言えば、つねにすでに《孤独でない回路が準備されている》ということではないか」と思ったのでした。▼「自己管理は労働である」というテーゼを思いついて、それは「私生活までが侵されている」であると同時に、さまざまな心身症系の苦しみにあえぐ人たちの孤立感が緩和される要因でもあるのではないか、つまり「自己管理する」というのは、あくまで孤立した任務としてイメージされるが、実は同時に「他人とのつながりの中」にある営みなのではないか――そのように考えて、慰撫されていたのでした。

ひきこもりは、社会的行為の消失点といえる*1
しかしそれがいかに非社会的実存になろうとも、その者の生活は、物質的には社会成員の経済活動(労働と交換)の成果であり、住居・食物・衣服等は、世界中の他者たちによる労働の成果*2。 私は自室にこもったまま、世界中の物質を享受している(僕が目の前にしているパソコンだってそうだ)。状態像としての「ひきこもり」および主観的隠遁(社会行為の消失)は、物質レベルの籠絡を否定できない。
私が自室で自己管理することは、主観的な課題設定のレベルにおいては完全に孤立している(誰も私を気にしない、見捨てられている)。しかし、私の物質的実存がつねにすでに社会‐経済的実存であるならば、私の自己管理の破綻は「社会的な破綻」の最小単位となる。つまり私の自己管理は、それ自体として社会行為であり、経済社会を維持するための労働行為であり得る。――と考えれば、「私の生活時間のすべてが労働のもとにある」ということについては、「資本(帝国)が私の人生を支配している!」と怒ることもできれば、逆に、「私はどんな瞬間にも他者との協働関係にある」と安堵することもできる。【両義性】



*1:論点ひきこもり』スタッフ井出草平さんの示唆

*2:10代の僕がマルクス主義の議論を知って最も感銘を受けた認識のひとつがこれだった。