既存解釈と、そこからの脱落

「力関係の差」については、当然ながら「アカデミズム」の強力な解釈権が問題となる。
運動体としての東京シューレは、不登校に否定的なアカデミズム(既存解釈権)と戦い、弱者たる不登校当事者を守ってきた。「フリースクールにすら救済されない体験や存在」に拘泥する貴戸氏は、いわばそのシューレの素振りを繰り返しているのだが、今回は東京シューレ自身が、「脱落者を糾弾する解釈権力」として振る舞っているように見える。
不登校を擁護したからといって、既存の学校教育という社会機能自体が否定されるわけではないように、フリースクールからの脱落者を擁護しても、フリースクールや「不登校擁護運動」の社会機能自体が否定されるわけではない。
既存の枠組みから離脱するあり方を規範として肯定する素振りと、その「離脱肯定」からすら脱落してしまう存在への社会的処遇を検討する作業とは、同時に成立すべきである。離脱を肯定する陣営と、復帰を模索する陣営が対立してしまうこれまでの文脈は、不毛すぎる*1。規範としての「離脱肯定」と、具体的救済努力としての「再復帰模索」は、同時に追求されてしかるべきものだ



*1:奥地圭子vs斎藤環」、「高岡健vs斎藤環」といった構図も、これで話が済んでしまう・・・・