「ニーズの主体」と「主張の主体」

双方の主張のすれ違いは、≪ニーズの主体≫としての当事者と、≪主張の主体≫としての当事者の混同に基づく。 ▼東京シューレ奥地圭子氏)は、不登校擁護の運動において「自分たちこそが当事者益を代弁している」という自負において語り、それゆえシューレに批判的な者を「不登校当事者の敵」と見なす。いっぽう貴戸氏は、不登校当事者の一人である自分自身の「必要=ニーズ」に応じて、あるいはフィールドワークから読み取れた「当事者たちの声=ニーズ」に応じて*1、みずからの主張を形成している。それぞれが、「当事者のニーズ」にこだわっている。 ▼『不登校は終わらない』に登場する当事者の一人である「Nさん」は、『不登校、選んだわけじゃないんだぜ! (よりみちパン!セ)』を参照すれば、貴戸理恵氏本人であることが明らかである。ここでは、≪ニーズの主体≫としての貴戸氏と、≪主張の主体(論文執筆者)≫としての貴戸氏が、手続き上ショートしている。「当事者の声」を取材すべき貴戸氏が、「自分自身」を取材対象の一つにし、主張を形成している。これは、既存の論文作法上疑問視されると思われるが、逆に言えば、「当事者による当事者研究」の一環として、「自分の経験を動因とし、自分自身を分析の対象にする」*2という作業の可能性にあえて打って出たものであり、≪当事者学≫という立場からの「調査倫理」上の挑戦とも考えられる。貴戸氏ご本人にこの点を確認したところ、「Nさん」が貴戸氏ご本人であるかどうかについての明言は避け、「この点については、これから時間をかけて自分で取り組んでゆきたい」とのこと。*3 ▼貴戸理恵氏は、東京シューレにも奥地圭子氏にも取材を行なっておらず、出版前には取材対象者全員から出版許可を取っている。東京シューレは、自分が取材対象ではないのに、取材対象者たちの発言内容およびそれへの解釈について検閲権を主張しているのであり、これについて貴戸氏に非があるとは思えない。貴戸氏の論文の「調査倫理」において真に問題とすべきなのは、「東京シューレとの関係」ではなく、むしろ「自分自身との関係」ではないだろうか。逆に言えば、期待されるべき可能性の焦点もそこにあるように思われる*4



*1:そこには、「調査現場に立ち現れない者」への想像力もあった(p.106,261など)。 このことは、「脱落・離脱」を本義とする不登校の研究においては、重要なセンスだと思われる。(これは当然、「フリースクールからすら脱落してしまう人たち」の問題であり、「ひきこもり」の話に通じている。)

*2:私はここに、精神分析の歴史や方法論を思い出さずにはいられない。

*3:明言を避けたことからも「Nさん」が貴戸氏であることは間違いないと思われるが、以下をお読みいただければお分かりのとおり、報告者である私(上山)自身は、貴戸氏のこの試みを積極的・肯定的に検証したいと思っている。これは当然、「ひきこもり経験」を出発点とした私自身の試みの再検証でもある。▼ただ、私はこの問題について、既存の学説の蓄積を何も知らない。ぜひ、識者諸氏の教えを乞いたい。

*4:不登校は終わらない』が、「当事者による研究ゆえの情報クオリティ」に成功しているか否か自身は、もちろんまた別個に検証されるべき事柄である。今回の貴戸氏の試みが失敗していたとしても、そのこと自体は、≪当事者学≫の可能性を検証する必要自体を否定するものではない。貴戸氏は単に一挑戦例にすぎない。