承前

貴戸理恵氏と東京シューレのやり取りをめぐっては、≪当事者≫というポジションが独特の役割を果たしており、これがお互いの主張する倫理性の参照項になっている。この問題は非常に広く複雑な射程を持ち、慎重な論考を必要とするが、ひとまずここでは、今回の案件に関連するいくつかの指摘のみを試みる。
【追記:当ブログでは、「現役の引きこもり」を≪当事者≫と呼び、「かつてそういう経験がある人」を≪経験者≫と呼んで分ける努力をしているが、貴戸氏の著作においては、「不登校経験を持つ者」がすべて≪当事者≫と呼ばれている。また貴戸氏の師事する上野千鶴子氏が共著者である『当事者主権 (岩波新書 新赤版 (860))』では、「ニーズを持ったとき、人はだれでも当事者になる」と定義されており(p.2)、「ニーズの有無」が鍵とされている。▼以下では、≪当事者≫と呼ばれるポジションが持つ機能そのものを考察している。】