「属性から離れつつ、課題に没入してゆく」を目指す

属性としては、私はなるだけ引きこもりの苦痛から離れたいし、社会的チャンスの増大や訓練的契機によって「できること」*1を増やしていきたい。 それは属性において「ひきこもり的である」ことから離れること、状態像においてもメンタリティにおいても「深刻な当事者」からどんどん離れていくことであり、「深刻な当事者」と共有するものがどんどん減っていくプロセスだが、それ自体はまさに慶賀すべきこと。 各々の当事者がそれぞれの仕方でそういうプロセスを歩めればいい。
閉じこもり続けることが善悪面でも経済面でも差し迫った問題にならず、「ひきこもり」としての属性や課題から解放された状態を目指すこと。 言葉を替えれば、生活体験のなかに「自発的要因」を増やすこと。


属性における当事者性がいくら希薄になろうとも、「ひきこもる」という体験を入り口にして自分が設定した課題は、個人的であるに留まらず、さらには「当事者同士」にもとどまらず、他者たちと共有できる。(その課題は当事者個々人で違っていい。)
たとえば私がいま考えるのは、「いったん脱落しただけで再チャレンジのチャンスからさえ疎外されてしまう社会」の状況を変えられないか、ということ。 「脱落する権利と再チャレンジの権利」ということで、このテーマを私は「ひきこもり(支援)」を考える中から析出したが、そのテーマ(課題)の重要性自体は、ひきこもり当事者にとってだけのものではないはずだ(引きこもり経験者において極めて先鋭的に問題化することは確かだが)。





*1:ひきこもりとは、ある「無能力」の姿だと思う。 この点についての当BLOGの議論は、ページ最上部の検索ボックスに「無能力」と要れて検索してみてください。 たとえばこちらなど。