内的必然と外的事情のからみ合い

  • 生きるために、メンタリティを強制的に変更する
  • 「天職」「モチベーション」の強調

 → 内発的・必然的変化と、外圧的・強制的変化

  • 「生きるために仕事をする」ではなく、「生きること自体が仕事だ」と考えてみた。
    • 「生きたくはない、でも仕事なのだ」
    • 自分の生自体は欲望の対象でなくとも、それによって叶えたい他の人間の欲がある? 「この人の願いを叶えたい」欲望。親とか愛する人とか。「他の人を楽しませる」ことを仕事とする。人生を使って。
    • 「自分の人生はこれのために回ってる、これを太陽としている」という何かが見つからないといられない気がしていた。自然で内発的な必然性に対する切望。でもその前提自体が否定神学的(いやむしろ神学そのもの)だったか。
    • 望まずに生まれてくるんだから生きたくない人がいても当り前。生きることに才能のない人もいる(時代や文脈に応じて「才能ある人」は変わるが)。自然的本能によって生きたい気持ちがある、というのはどうも信じられない。人間において本能は壊れている。そして無数の理不尽な死(事件・事故・病気・餓死)。生きることの不安定な状況を本当に望み得るか。
    • 「仕事してればいいこともあるよ」  生きることは基本的に嫌なことだ、でも仕事なのだ
    • 神秘的体験を基礎に(その余興として)仕事を続行するのではなく、職業的体験(としての人生)の一要素として神秘的体験がある、のではないか。 → 神秘とは残酷のこと。そして無意識。
    • 「生きろ」という職務命令を下しているのは誰か。「社会」という空疎なものではない。「人口を増やすため」というレベル以外では、「お前の代わりなどいくらでもいる」。私が死んでも代わりはいくらでもいる。「死ね」と言われることさえある。「役立たずめ」
    • 自分という会社。どんな事業をするか。


  • 「失敗の人生などない、人間は自然の一部なのだから」と言ったアインシュタイン
    • 完全な決定論を前提にした彼は、平和運動をした彼と矛盾していないか?(13年前の『アインシュタイン・ロマン』におけるミヒャエル・エンデの指摘)
    • 「権力」を、自然科学の言葉で説明できるだろうか。
    • 思考実験。小さな部屋の中に人間を2人入れ、外から内部の温度や物理現象を計測する。片方の個体から音波が発せられた。するともう片方の個体の体温が急上昇した。この温度上昇を自然科学で説明できるか? → 「侮辱的発言をしたから」という単純な理由を、自然科学の目は説明できない。(声ではなく文字で考えればもっとフシギだ)
    • 「人間の工夫」(制度や作品)を自然科学はどう説明するのだろうか。物理学は、物理学という営み自身をどう説明するのだろうか。


  • 自分の中に内発的変化が起こることを待っていたのでは駄目。
    • 一般の、クスリに頼る傾向。自由意志をケミカルに操縦する。(いわゆる動物化
    • 「洗脳」においては、外圧的変化が内発的変化と混同されている。 → しかしその峻別は非常に難しい。「我々は商品世界に洗脳されている」などという言い方もできる。
    • インターネットという技術が「これをやってみたい」という内発的欲望を可能にした。 → 外部に存在する作品や技術的変化が自生的欲望を生み出すことがある。――いや、というか「こんなことができるならやってみよう」というのが僕らの欲望の本質か。問題は、誰に対してどんな「外部(オルタナティヴ)」を提示できるか、だ。
    • 「実存と社会システム」の関係整備。地域通貨はそのメニューの一つのはず。
    • 「対話」や世代論においても、内部と外部の緊張関係が問題になっている。


  • 意識とは身体に湧いた苔(コケ)だ。
    • 目が覚めるたびに意識が起動してしまうという事実そのものは私にとって外在的だ。自分の意識という機械を持て余している。自分の意識のメンテナンスの難しさ。
    • 外部の事情を内部の必然性に変えることができないで呻吟している。外部の事情とは別に内部の必然性があるような気がしている。錯覚か。
    • 内部が外部を作り、外部が内部を作る、という相互の詩学が問題にされないと。



 ひきこもりを巡る言説を豊かにする必要がある。私はやはり大学を目指すべきだろうか。
 そもそも僕は言説への欲望を維持できるだろうか。投げやりにならないで生きられるだろうか。
 ひきこもりは私にとって必然的テーマだろうか。