「無視された現実」

NHKのTV番組『死の国の旋律〜アウシュビッツと音楽家たち』を観る。  『SHOAH』が重なる。

「これは私の復讐なのです」
  • 80歳の女性が外傷的場面(シーン)のことを話し始めた途端、彼女が当時の20歳に見えてくる
  • 生きる意味を見失った時にあえて収容所を訪れることで安らぎと意味を獲得する
  • 「あんなことがなければ、私たちの家族には別の人生がありえたかもしれないのに」  決定的なセリフ  憎むべき他者に侵入された  処罰も復讐もできない
  • 被害者が必ずしも高貴な人間であるわけではない(だからこそ逆に恐いのだ。ありきたりな人間に降りかかったこと)
  • 新しく生まれてきた疵のない人間が音楽を楽しんでいる  傷という痕跡を抱えた私は世界を楽しめない
  • 数学や物理学は過去の傷を問わない
  • 傷を受けるのは生身の人間  最高に高貴なものがあるとしてもそれが実現するのは生身の人間においてだ
  • 収容所で瀕死の母にかけられた言葉  「あなたに神の祝福がありますように」
  • 傷つけられた survivor 同士で罵り合う
  • 資本主義という、世界の外傷的論理に立ち向かえず自ら自己を幽閉し 諦めて餓死を待つのか
  • 「体験した人にしか分からない」  親密な人間関係を持てない  自己も世界も空しいと感じる
  • 自己愛の破壊と呼び得る状況において  私は自己を存続させるためにいかなる努力をするのか
  • 「音楽」:当時の状況を露骨に思い出してしまうトリガー  「味わい深く楽しむこともできます、でも当時の曲を聞いてしまったら、自分がどんな反応をするか分からないのです」
  • 本当の被害者には声がない  「証言」する言語が破壊されている  端的に殺されている  「この世の中の苦しみは、すべて地面の下にある」
  • 「現実は存在しているのではありません。現実は探し求められ、獲得されねばなりません」*1
  • 私がマルクスの「史的唯物論」に感じた反発もそれだった 「古典派経済学は富の生みの苦しみについては一瞬も考え違いはしなかった。だが、歴史的必然を嘆いたとてなにになろう?」*2  傷つき苦しむことしか許されていない生 そういう外傷的論理に囲繞されて生きざるを得ないこと
  • 証言は、現実を変えてはならない。 学問は、それ自体ひとつの「証言」かもしれない。
  • 人間は、無視された現実に従って現実を変えようとする。


『カイエ』誌  それがまた、演出というものを『ホロコースト』のようなフィクションから分かつ点になっているわけですね。
ランズマン  ええ、『ショアー』は現実的なもののフィクションであって、これはまったくの別物です。

「虚構というものは、あのような物語の中にあっては、最もゆゆしき侵犯となるのです」
「そこで、純粋な現在によって生の映画を作る必要があったのです」*3




トラウマ的過去。しかし日々の意識と労働はそれ自体が外傷的従事である。時間を止めて過去を検証できるのではない。検証する現在はそれ自体が外傷的に流れつつあり、一定の耐えられない性格を持っている。




ephemer はかない
叫び声は、怒りは、現象を自己同一的に支えはしない。
凍結された現在はいつになったら流れ始めるのか

自分がやっと語ったことが、聞き手にほとんど伝わっていないと感じている・・・・・「語らないこと」は悪の暴虐をいつまでも温存させることになるのだ・・・・・・「世界の贖いは存在しない」・・・・・・・「罰することも赦すこともできない」・・・・・・時代によってトラウマは様々な名称のもとに定義されてきたが、確定的な定義は今のところまだない・・・・・・「ナチズムとは、表象された現前を押しつけて人を殺すことなのです」・・・・・・『ショアー』に出てくる生き残りたちは、だれ一人として《私は》とは言わない・・・・・歴史がトラウマ的特性を持つというとき、出来事は他者を巻き込んで初めて歴史的となると言ってもよい*4

「〜せざるを得ない」こそが「現実」ではないか

一方の構成部分がトラウマ的体験と呼べる体験を経ているのに対し、残りの構成部分はその体験をまぬがれている・・・・・・いわゆる資本主義とは、おそらく、自分自身を目的とみなすような生産の無限でしかないのです。しかし、意味としての実存それ自身は、そういうものとは全く別のもの――ブランショが「無為=作品の消去」〔desoeuvrement〕という美しい名で名付けたものなのです。*5

行動しないことを選択する――そこから浮かび上がってくるもの


他者の欲望のさなかで脆弱な身体と過去の痕跡を抱えつつ


苦痛なき者に政治は要らない




わたしは、無視された現実によって現実を変えようとする




労働力商品として、あるいは商品生産者としてみずからを特化できない人間に生きる途はない。
具体的に飛び抜けた成果を作らないと説得力は生まれない、文脈は変えられないのではないか。
「欲望について語る人」は「欲望を喚起する人」ではない
他者の欲望を喚起できない人間をこの社会はどうするのか




「私はここで何をやっているんだ? これからどうするんだ? 何をやりたんだ?」――この問いは1億年たっても同じ鮮度だろうか。学問は、「現象への取り組み方」をマニュアル化してくれる「取扱説明書」だろうか。僕らは現象のユーザーなのか。 「今ある問題は、まだ生まれていない人たちが解決してくれるさ」



  • ジジェク『いまだ妖怪は徘徊している!』ISBN:4915252493 を再読。
    • 経済的領域の脱政治化(グローバリゼーションに反対するのは右翼だけという皮肉)
    • 真のコミュニケーションは、「闘争における連帯」である
    • 「想像的理想の超自我化」
    • 「神様はタマゴッチ」
    • 受動的事実性と能動的作為

私たちの意識の流動性は、資本主義社会の流動性と明らかに関係している。(自分のいる場所が、沈滞激しい旧共産圏だと夢想してみよ。「スローライフ」)




「経済発展」「生産性向上」を絶対指針とするなら、それに乗っかれない人間は死ぬしかない。でも「過労死」「環境問題」はじめ、資本主義を盲目的に邁進させることへの危機感は出ている。
理念による現実改変が望みにくいなら、私たちは「コスト・カッター」として社会を説得すべきなのか。
シニシズムは、ひきこもりにとって端的に死を意味する。




「日常生活は、その平和な姿のままで戦場なのだ」
「競争社会で無理をしてまで生き残りたくはない」という声が自分の中にあることも知っている




良いと判断しようが悪いと判断しようが世界はこのようにあり 肉体はこのように与えられており 変えられない にんげんが滅んでも誰も困らない 世界を拒絶したとたんに私の能力は著しく落ちる それが言語の摂理




「心貧しき者は幸いなるかな」
自分に関係ない殺戮は語り得る。しかし関係ある(かもしれない)殺戮は・・・
「記憶は空しい。私をトラブルに巻き込む。でも忘れられない」  不毛にしか思えない記憶
無力感にひどく傷ついている
新しい現象のみを楽しみたい。 いや、でも・・・





*1:ツェラン

*2:マルクス資本論

*3:ランズマン「場処と言葉」『現代思想』1995-7

*4:現代思想』1995-7

*5:同上