強さの創造?

 11月30日の山愚痴さんのコメントから、あらためて「価値観と経済生活」について考える。


 ひきこもりそのものを価値観的に肯定することと、経済的自立、という両課題がある*1として、本当の困難は後者にある。
 「本人の意図を超えて」ひきこもりが深刻化している場合、価値観面で仲間を見出すところまではかなりの確率で成功するのだが、そこから先、つまり「最大のハードル」たる経済的自立の段階でつまづく。本人が閉じこもりを望んでいる場合にも、その選択を支えるのはおカネだ。


 先日TVで、直射日光をちょっと浴びるだけで火傷をし皮膚ガンになってしまう少女が紹介されていた。僕は自分の五感について似たようなことを考える。多くの人にとっては悦びに感じられる外界刺激に、いちいち神経をすり減らすこと。
 自分の神経的な脆弱さを事実として受け止めながら、それでも作っていける経済的自立とはどんなものだろう。


 意図せざる引きこもりは本人にとって一種の「障害」であるのだから、要件を満たすのであれば生活保護や障害者年金を検討してみてもいい*2。しかし借金まみれの国家財政で社会保障は破綻寸前*3なのだから、とても一般化はできない。


 学問や作品作りによって既存の体制やマーケットに乗っかれるなら、どしどし頑張ればいい。しかし自分が「少数派の価値観と感性」を持っているとしたら*4、たちまち生活に行き詰まる。自分を押し殺して既存の文脈に乗っかろうとしても、たちまち心身症で破綻する。


 僕はここに、心身症が倫理的に機能し得る可能性について考える。置かれた状況において「何かが間違っている」として、それを「なかったこと」としてやり過ごせる人と、意識的にはそのつもりがなくとも「症状として」その困惑を生きてしまう人と。症状はつねに「病気」として処理され、そこに何かを読み取ろうとする人は少ない。もちろん、すべての「症状」に重大な意味を読み取ることはできないし、読解能力は有限だ。僕らはむしろ、自分の症状(症候)にどう取り組むのか、を考えるべきなのか。


 どんなに勇ましい倫理意識を持っていても、経済生活に行き詰まればとたんに妥協を余儀なくされる。これはどんな立場の人だって悩まされることだ。派閥や内輪主義がイヤだと言っても、そういう共同体が実際に経済関係を支えている面がある以上、改革の要請は「経済的にマズイ(儲からない・コストがかかる・損害が出る)」といった理由に基づかないと難しい。(「最高の破壊は、より良きものの創造にある」*5という言葉を思い出す。)


 ふつうに考えていたら、八方塞がりにしか見えない。完全に絶望してしまう前に、どんな方策が可能だろう。
 そもそも、そこまでして生きていく理由はなんだろう。





*1:『当事者主権』ISBN:4004308607 の「運動体」と「事業体」

*2: pavlusha さん(jam_ojisan だったとは!)の指摘がとても参考になる。「社会的ひきこもり」は状態像であって、定義上も「精神障害」を第一原因とするものではない。しかし苦痛が現にあって「仕事ができない」のであれば、「健常者」と同列に扱うことはかえって不利益を招くおそれがある(現実的には強迫神経症パニック障害鬱状態などの症状を前面に出すことになるか)。
 どういうレベルで起こっているトラブルなのか、そしてそれへの有効なリアクションは何なのか――臨機応変のたいへんな創意工夫が必要だと感じる。

*3:今日の日経新聞によれば、国の借金は520兆円、毎年の税収の16倍。高齢化の進展で社会保障費用は毎年1兆円ずつ増加するという。

*4:もちろん単純な能力不足もある。僕はそこで「新しいジャンルの創造」を夢見るのだが。

*5:誰の言葉だっけ。