心もとない

 僕が「商品」と書いたのは、かなり拡大解釈した意味で、つまり「勝手に作って、人々にアクセスされるのを待っているもの」。たとえば、公的支援機関もそういうものとして考えます。
 ひきこもり当事者たちが自分で欲望を持ってくれれば、あとは支援もどうでも展開できると思うのですが、いちばん困難でネックになるのは、「当事者たちの欲望はすでに死につつある」ということです。たとえば家に閉じこもってネットをしたり本を読んだりゲームをしたりしているとして、消費生活がそこで完結していて、しかも「金がなくなったらこのまま死んでもいい」と本気で思っているとしたら、これは外からいくら働きかけても空しい。そして多くの当事者にとってはその程度の室内活動さえなく、ましてや自分を家の外と直結させるような参加的関心はもはやこの世に対してありません。家の外との直結はイコール激痛であり、魅惑の対象や魅惑の活動は家の外にはありません。そのとき「家を出る」のは単なるマゾヒスティックな倒錯行動でしかない。「魅惑の対象がなくても家を出ろ」という声に対しては、彼らは静かに餓死を選択するでしょう。
 ひきこもり支援は、ひょっとしたら欲望の死に立ち会う終末期医療かもしれない。それが無駄な延命治療にならないためには、どうしたらいいか。僕は「商品生産」という言葉をカギに――というのもそれは他者の欲望をターゲットになされる努力だから――考えてみましたが、まだ考え中。


 考えてみると、支援者側が商品生産をモデルに欲望刺激を試みるとして、当事者の側も、この資本主義社会においてみずからを1個の労働力商品として、あるいは自分の作った物を商品として売り飛ばし処分しなければならないとしたら、支援者は実は当事者に対して、「君も1個の商品生産者になりなさい」と呼びかける以外ないわけでしょうか。いや、それは支援者の主観的な「つもり」に関わりなく、資本主義社会の中ではそうであらざるを得ないのではないか。
 以前、ある知人が「ひきこもりとは他者の欲望からの撤退である」と表現したが、ひきこもり支援とはつまるところ「君も自分なりの流儀で他者の欲望に合流しよう!」ということか。
 他者に求められるのはとても難しい。その厳しさに耐えてでも「他者に求められること」を欲望できるか


 最悪の話、他者の欲望に合流できない個人、つまり他者に向けて物を作れないだけでなく、自分自身も1個の商品として売れ残り廃棄されてしまう、そういう個人もいるのではないか。 → そこで、「福祉」という発想になるわけであるが。(国の経済が事実上破綻していると言われる現在、どこにそんな福祉財源があるというのか。)
 何か物を作ることもできず、自分自身を1個の商品として磨くこともできない個人――しかも親からの金もない――が、どうやって生きる?
 この社会は、他者の欲望に求められた存在しか生き残れないのだ。ひきこもり当事者にとっても支援者にとっても、他者の欲望がどうあるのか、他者の欲望を直撃するために我々にできることは何なのか、それをもっと研究する必要がないか。
 考えれば考えるほど、「いかにしてカネを儲けるか」というような話にしかならんが・・・・、問題は、どのような活動を通じて/商品生産を通じて/他者の欲望にアクセスするか、ということで、自分に与えられた条件を考慮しながら、僕らは他者の欲望にアクセスする倫理(スタイル)を再検討する必要に迫られる。


 ここに書き付けていることは原理論でしかない・・・・僕は実際に他者の欲望を刺激してみせなければならない・・・・(そして欲望を刺激できる相手なんてごく一部だ、つまり僕の活動の恩恵を直接こうむる人なんてごく一部だ・・・・間接的影響はともかく・・・・)


 当事者をイデオロギーで縛り付けない引きこもり支援のあり方として、商品生産というモデルしか思いつかないんだが、何かもっといいアイデアの方いませんか?




【付記】
▼当人の欲望にアプローチする技法論としては、やはり精神分析を捨て置けないのですが・・・。ただしそれは「当人が望んで出てきている」場合の技法だと思うので、「転移操作」に関する一般的議論以外は、技法論的には意味がないかな・・・・。
▼ひきこもりに関わろうとする時には、まず支援者自身の欲望が分析されねばならないのではないか。支援者は、いったい何を望んでいるのか。
▼言うまでもなく、「商品生産すればいい」というのは、資本主義のメカニズムに組み込まれることでしかなく(再属領化の動き)、・・・・僕が言っているのは、「他者の欲望に巻き込まれる別の仕方はないか」ということだろうか(やはりそれも「再属領化」か?)。そのときに、「新しい決済手段の設計図PICSYLETSなどの地域通貨)」は意義を持つだろうか?