「病気」か「葛藤」か

 精神保健福祉士になるための専門学校の説明会に参加。30分ほど授業内容や資格の性質についての説明を受けたあと、個別面談。業界事情や、「ひきこもり」に関する話などを少し聞く。
 精神保健福祉士PSW)とは、精神障害者の「社会復帰に関する相談に応じ、助言、指導、日常生活への適応のために必要な訓練その他の援助を行うこと(以下「相談援助」という。)を業とする者をいう。」(精神保健福祉士法、第一章「総則」第二条)  

PSWが精神病院で業務を行なっても、病院側には何の収入にもならない。だから病院にとってはPSWを雇うのは患者に対するボランティア。▼医師や臨床心理士とはちがい「治療」はしない。あくまで「相談援助」(橋渡し役)。職場・家族・社会との「関係調整」。▼精神病院で対応するのは、7〜8割は統合失調症の患者さん。▼国家資格。平成11年に最初の試験。平成15年度は合格率62.7%(9039人受験、5670人合格)――【以上、説明会と個人面談の情報より】

 数日前からの当日記での議論を頭のすみに置きつつ――「ひきこもり」に対応するのに、果たしてこの資格でいいのか・・・・「社会福祉士」の方がよくないか・・・・などと考えていて、ある考えに至りついた。
   → ★「ひきこもり」は、≪病気≫か、それとも≪葛藤≫か?


 問題を解決したのではなくて、ただ論点を整理しただけだが。いろんな議論や紛糾は、けっきょくこの論点を回っていると思う。

  • 「病気」なら、「治療」せねばなるまい。その場合は「甘えている」とは言われない。
  • ひきこもりが「葛藤」でしかないなら、「甘えている」と言われるだろう。葛藤など、社会で暮らす人間ならば誰にでもある。
  • 「病気」には葛藤は読み取られず、「葛藤」には病気は読み取られない。
  • 「働けない」は「病人ゆえの不可抗力」だが、「働かない」は「葛藤の末の選択」だ。社会的処遇に戸惑うのは、「葛藤が原因なのに『働けない』」場合。
  • 「社会的ひきこもり」という概念の中心的唱道者である斉藤環氏が「精神科医」であることによるバイアスは考慮すべきだ(必ずしもいけないというのではない)。
  • 統合失調症(もと分裂病)の中にも「人間的葛藤」を読み取る議論もある。ただし現在は、脳生理学や遺伝学など、「生物学的」因果関係の研究が中心であり(それゆえ対応としては薬物治療が中心)、「人間的葛藤」を主軸においた治療はほとんど見られない。
  • ひきこもりにとっては、「動物的か人間的か」(東浩紀氏)よりも、「病気なのか葛藤なのか」という問題設定の方がずっと喫緊で重大だ。
  • ひきこもり当事者は、「自分は精神病ではないから公的援助は受けられない」と思いつつ、一方で「自分は社会的異常者で、どこへ行っても疎外され迫害される」と思っている。
  • 新しい葛藤は、サブカルチャーとして表現され浸透していく。「ひきこもり」は、サブカルチャーかどうかはともかく、ひとまず「少数者」の問題だ。
  • 私の本(ISBN:4062110725)に対して、「共感できた」と言ってくれた社会人の方が何人もいた。「ひきこもりとか何とか分類してるけど、要するにフツーの人じゃんか」という人もいた。これは「ひきこもり」が普遍的な葛藤を内包しているということか。 → しかし、同じことは統合失調症の内面記述についても言われないか?
  • 「精神病」というカテゴライズ自体が差別的な排除の視線だ、という指摘(フーコーなど)があるが、それではそもそも「福祉」の枠組み(予算など)が成り立たない。
  • 葛藤への「取り組み」と、病気への「取り組み」(治療)のちがい。本人にとってはどうでもいい問題でも、ひきこもりへの社会的処遇を考えた場合には重大な問題ではないか。
  • ドゥルーズガタリの『アンチ・オイディプス』(ISBN:4309240828)は、統合失調症(という病気)に、資本主義社会の中で葛藤するためのヒントを見出したのではなかったか。
  • アルコール依存症は、葛藤の問題のようにも思われるが、社会的には「病気」として処遇される。(PSWの仕事の対象となる。)
  • 1980年頃、YMOが「ほとんどビョーキ」などと言っていたが・・・。



 思いつくままに書き並べてみたが、果たして引きこもりは「葛藤」なのか「病」なのか。
 これについて、説得力のある議論、それも社会的に実効性のある議論を展開するには、もう少し勉強が必要かもしれない。