他者の欲望への接続回路

 「社会の動物化」の議論のあと、id:Ririka:20031008から刺激を受けて。
▼「自分の欲望」を屹立させる難しさ。僕をふくめ苦しんでいる人の多くは、周囲にあふれる「他者たちの言葉=欲望」に振り回され、自分の欲望を見失っている。(病者は、「自分はいま喋っているが、これは誰かに言わされているんだ」などと言うらしい。彼らにあっては、「自分の言葉」と「他人の言葉」の区別がつかなくなっている。)
▼オタクのネットワークの前提にあるのは、各人が持っている<モノ(作品)>への執着だ。ひきこもりには、そういう外部の作品に対する執着がないから、共通の土台をもってコミュニケーションが成り立つためには、たぶん<自己言及的な>議論をするしかない(「自分の状態は○○だ」、「自分が苦しんでいるのは○○の問題だ」といったところで、各人の思いは非常に似通う)。だがそういう自己言及的なコミュニケーションは、イタいし、すぐにネタが尽きてしまう。僕は、やはり別種の欲望の展開を考えたい。
▼自分の主体的選択によって引きこもった人(作品を作るためとか)を「ひきこもり」とは言うまい。ひきこもりは、「避けようと思ってもどうしようもなくそうなってしまうもの」だ。ただ、ひきこもっている時間は非常に苦痛なので、その苦しさが何かを生み出す原動力にはなるかもしれない。――これは異論があるかもしれないが、引きこもっている人の精神生活は基本的にはひどく貧困で(その貧困の中でジリジリと苦しんでいる感じ)、テレビや雑誌などをみても「自分が入っていけない世界」、「自分を拒絶した世界」の情報としか見えず、過剰にそれを馬鹿にしたり崇めたりする。現実的な判断に基づいて的確な思考を展開することは稀で、基本的には「自分」をめぐる妄想(「自分はスゴイ」、「隣人が自分の悪口を言っている」など)と、逆に「自分」にはものすごく縁遠い問題(「宇宙とは何か」、「国際情勢について」など)を考えている。自分と社会とが具体的な接点をもつような「中間領域」についての思考や感覚が抜け落ちている。
▼本当に熱心に何かに没頭することができれば、そこで生まれた作品や知識を通じて社会参加のきっかけを掴むこともできるのだろうけれど、実際にはほとんどの人は苛ついて焦って苦しんでいるだけ。そしてそのまま枯れてゆく。
▼女性は、「欲望される存在」であるがゆえに引きこもりにくいのだ、という指摘は一考に値する。男性と女性とでは、「社会(他者)に求められる」メカニズムが違っている。自分を関係性の中に位置づける困難さは、そのまま「他者に求められる」困難さなのだ。(これは僕らの社会では、たぶん「商品」を作る困難さと同じだ。多くの人は、自分を「売れる商品=他者に求められる存在」に仕立て上げることで、社会に参加する。いわゆる「労働力商品」。)●拒食症の女の子は、自分の体が女性らしく発育してしまうことを激しく嫌悪して食事を絶つが、ここにも他者たち(異性たち)の「欲望する視線」が関係している(「欲望される」ことを拒否するゆえに社会参加ができなくなっている)。
▼「専業主婦」云々はRirika氏の言う通りで、現に「私は20年間ひきこもっていました」という母親がいた。ただし、思春期の延長としてやむなく引きこもってしまう事例と、結婚後に家事労働をしながら家庭に閉じこもってしまう事例とでは、やはり事情が違う。考えなければならないのはやはりいずれにしても「社会参加のチャンスを生み出さなければいけない」ということか。――ただし、「社会参加しなければならない」などと義務化するのは本末転倒で、むしろ「参加したい」という欲望を喚起する方に焦点を絞るべきだろう。その欲望こそがたぶんコミュニケーションのチャンスを生む。

  • 「欲望される」ときに、「人間的に」欲望されるのか、それとも「動物的に」求められるのか。
    • 「人間的に求められる」とはどういうことだろう?●「動物的に」というのは利己的な性欲を考えれば分かりやすいが、要するに「道具として」「手段として」利用される、ということだろう。即時的な欲求解消の道具。(これはしかし、「分業」によって成り立つ資本主義社会では前提となる他者観ではないのか?) → ということは、「人間として」求められるとは、手段としてではなく「目的として」求められるということか。――「親の見栄を満たすための手段としての子供」とか、「社会運動の手段としての個人」とかを思い出す。●「動物化した社会」は、要するに「お互いが手段となっている社会」ではないか。


  • 「求められたからコレをやりました」ではなく(それは周囲の欲望への隷従だ)、屹立した自分の欲望の道を突き進む人。その「他者たちの声(=欲望)」のさなかで自分の欲望を屹立させる詩学アリストテレス)を知りたい。【 → 欲望の詩学
    • 彼らは周囲の声に従っていないのに、なぜか周囲の求めるものを作り出してしまったりする。(ここで思い出すのが「無意識的欲望」という言葉だ。偉大な製作者は、他者たちの「無意識の欲望」に通じているのではないか? 浅はかな欲望は気にもかけず、秘められた欲望に直撃弾を食らわすのではないか?)



▼この社会での「受動性から能動性への転換」は、「消費される側から消費する側への転換」でしかないように思える。(「愛されたい」は、「消費されたい」だろうか?)
▼この社会で「自立する」とは、「消費者として自立する」ということか。そこでは「消費の人間的な意味」を考えた瞬間にすごく苦しくなる。(「消費は消費として刹那的に楽しまなければならない」)●そこではたぶん、労働も刹那的に(消費のように)楽しまねばならないのだろう。
▼「働く動機」は、「消費したい」と「求められるから」か。――孤立する人は、消費したい願望ももたず、求められた経験も持たない。●オタクの人は、ズバ抜けた消費願望を持つ。モノ(作品)を介して、人から求められる回路もある。


 ★★★「生きる意味」は、「他者の欲望への接続回路」の問題という気がしてきた。(理論を作る人は、理論を通じて人の欲望につながるし、魚屋さんは、魚を通じて・・・・etc.)
 この問題、まだまだ続きます・・・・