こうしてみると

 この20年間、なんとも貧しい。アニメや漫画に興味を持たなくなったからといって他の何かに夢中になっていたのかといえばそうでもなくて、要するに単に「将来どうしよう」とか「彼女ほしい」とかそんなことで悶々としていただけ。作品にも世界の動向にもまったく目が向いていなかった。オタクの人は、作品への興味を入り口にしつつ、周囲の異性とつながっていたり、世界の動向へも興味が向いていたりする。オタク的作品以外にも詳しかったり。
 人間関係はどうだったかというと、どうも僕が仲良くなるのはつらくなっている人ばかり。滝本竜彦氏が「ファウスト」の鼎談で「自分の周りは自殺ばかり」みたいな発言をしていたが、その感覚は非常によく分かる。
 どうも僕の嗜好は、「対象そのもの」に没頭できるようなオタク的なあり方というのは1984年にいったん終わってしまって、以後は「主体の痛み」に反応している気がする。
 東浩紀氏はオタク業界に関わりつつ「レビュー以上の言説を生み出す」努力をしている。斎藤環氏もそれに関わっているが、斎藤氏はひきこもりについても同様の努力をしているのだと思う。個々の苦しみに臨床的に関わりつつ、「それ以上の」言説を目指すこと。「個々の苦しみ」は、「個々の作品」以上にありきたりでいわば貧困だ。各々のケースが観察者を「ハマらせる」ことがないだけに、言葉を生み出すことはより一層困難だと思う。