帰路

 三ノ宮でジュンク堂センター街店に立ち寄る。懸案の『ファウスト』(講談社)ようやっと購入。本屋に来たのは何ヶ月ぶりだろう。せっかくなので思想・哲学・心理のコーナーなど見て回り、いつの間にか立ち読みに没頭。

  • スラヴォイ・ジジェク『信じるということ』。「信じる」という営みは「-x」と「+x」の対関係を生きるようなもの、という訳者のあとがきにひとまずうなづく。「信じる」という構造がないと人は何もできないのではないか。たとえば事故で突然死んだ人間にとって、死ぬ前日の生き方はまさに「信仰」であり、虚妄にすぎない。だって翌日には死んでしまうのに、あたかも「今後もずっと生きられるような顔をして」生きていたのだから。でも、それは遡行的に「虚妄だった」と言えるわけで、今の僕が「明日死ぬかもしれない」(その可能性はゼロではない)からと言って今日何もしないという態度をとるなら、僕はいつまでたっても何もできない。「遅くともしないよりはマシ」というスローガンを愚鈍に墨守した人間がけっきょくは成果を残す。
  • 『危ない精神分析』(矢幡洋亜紀書房)。PTSD問題の聖書『心的外傷と回復』およびその著者ハーマンをボロクソに言う書。要は虚偽記憶症候群(false memory syndrome)の問題なのだが、暗澹たる気持ちになった。犯罪が「あった」証拠もなければ「なかった」証拠もないケースについて、どんな確定的なことを言えるのか。「記憶の戦争」については、僕は主にデリダラカンの対立を中心に考えていたのだけど、こういう分かりやすい日本語で分かりやすい論点を扱った本は刺激になる。
  • 今年30歳になる引きこもり当事者の女性が書いた体験手記。今日の親の会では「親は、無条件に子供の味方である唯一の存在」みたいなこと言ったが、もちろんそれはわざわざ親の会に来ているような親たち相手だからこそそう言ったまでで、現実には「子供の味方ではない親」はいくらでもいる。『日本一醜い親への手紙』なんてのも思い出す。ひきこもりについては、退屈でもていねいに辿るべき話はまだまだ多い。
  • 主に10代に取材した「不登校・自殺・ひきこもり」についての本。「30歳を過ぎたら死んでもいい」などというのは僕も10代のころ考えていたことだが、やはり「生きていてもしかたがない」感覚、「世界はますます悪くなっていく」感覚は僕の頃より多数派になってきているということか。先日の新聞では、今の新入社員は「夢をもとうとしない」「興ざめした現実主義的なことしか言わない」。同じ流れか。「真剣に考える者ほど絶望し、半径5メートル以内の現実しか見ない者だけが元気」という指摘に、東氏の「動物的」を思い出す。人間的な意識を持つ者ほど「何もする気が起きない」。
  • InterCommunication』。斎藤環氏の連載「メディアは存在しない」。「マトリックス」と「攻殻機動隊」と「ラカン」。私という「情報の束」のコピー可能性。