それにしても

 僕の言葉はあまりにも硬直しているように見える。僕は相変わらず、「世界がこのようである」ことに驚き怒り途方に暮れている・・・。それにしても、なんで世界は「こう」でなくちゃいけなかったかな。もう、人間ったらただの肉の塊・・・・電車やバスが「肉の運搬車」に見えてしかたがない・・・。そしてそこに乗り込もうとしている僕という肉・・・。あー、ここから逃れられない。
 でも、そういう僕が知り合いたちの存在によって救われているのも確かでね・・・。じゃあ何によって救われているのかといえば、それは「仕事をしている耳」とでもいうか・・・。「聞いてくれる」・・・「この人には伝わる」・・・それは単なる全面受容ということではなくて、「考えるべきことを考えている」人に対する信頼というか・・・。だから僕がトラウマという言葉なぞにこだわっているのも、きっと「耳」を作ろうとしているのだと思う。「聞く耳」を作る、それは社会的な仕事じゃないだろうか?