「当事者発言」のために必要な信頼

《当事者として考える》というスタンスは、左派の知的コミュニティへの信頼に基づいていたと思う。

  • 「自分の問題を自分で考える」ことに、社会的な敬意を払ってもらえる
  • 彼らにもそういうスタンスを共有してもらえる

――そういう信頼がなければ、いわゆる「当事者発言」は、
みずからに不利益をもたらすだけ、になりかねない。


東日本大震災以後、さまざまな案件を通じて、左派の知的コミュニティを信頼できないと思うようになった。*1

「自分の問題に自分で取り組む」の根幹にあった信頼が失われれば、これはいったい何をしているのかという話になる。


左派はそもそも、自分の問題に取り組むことを拒絶している。
ならば、「当事者」と名付けた人たちだけに恥ずかしい話をさせるのは、これはいったい何をしているのか。たんに被差別枠に囲い込んで、政治的に利用してるだけじゃないか。



*1:それ以前からくすぶっていた不信感が量的閾値を越え、ついに心理的地殻変動を起こしたようなことかもしれない。「洗脳が解ける」ような感覚。