- 【第1回DG-Lab研究会開催報告(その2)】(ドゥルーズ・ガタリ・ラボラトリ)
このレポートを拝読するかぎり、山森裕毅氏は『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』という本を乗り越えたと主張した形なのですが、では山森氏の説明に新機軸があるかというと――正直なところ、何もありません。むしろ、後退しているように見えます。
書籍『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』で示された「制度分析」や transversalité は、《論じる自分の生きる制度》を問題にしていたはずです。――私はそうであるからこそ、興味を向けました。つまりそこでは、アカデミックに見える言説や、病院・大学という環境そのものの当事者性が問題にされているのです。*1
私はあの本に、文献研究者や臨床専門職として参加したのではありません。――《個人的な経緯で立つことになった「当事者」というポジションに悩み、そこで問題意識を抱える個人》として、異様なほど論点を共有できた、そのことを通じて参加したわけです。
その論点の共有は、とりもなおさず《制度》という概念の理解に懸かっていました。
上記リンク先にある山森氏の発表では、そういう《みずからの生きる制度》への視点が、さっぱり見当たりません。
「従来とは異なる観点から、横断性概念の真価を再構築する」*2というなら、まずは《自分の制度》が問題になっていることを踏まえたうえで、そこからどういう新機軸を出せるのか、という話にならないと。
《主体集団》《隷属集団》というのも、「主体集団であるべきだ」という規範命題である限りは、つまらない話でしかありません(参照)。難しいのは、「ではどうすればよいか」という技法であって――そこで追い込まれての試行錯誤があるわけです。
制度論の照準は、《みずからの生きる制度》であり、そこでの技法である
――ここから、「制度」と「臨床」を分けることはできない、という論点につながります。
これは以前にも、山森氏との間で問題になった点でした(参照)。
この本は制度精神療法の「制度」の考察に重点を置き過ぎ、「精神療法」の側面には深く踏み込んでいない。
山森氏は、「制度」と臨床とを分けて説明しています。
これは制度論の根幹なので、この理解では話になりません。
たとえば山森氏は、病院でフィールドワークをするより、
哲学研究をしている自分や所属機関の実態について研究するほうが、
psychothérapie institutionnelle を実践する分析を生きられるはず。
これは冗談ではなくて、本気で言っています。――というか、そういう理解をする以外に、ラボルドや Guattari を参照する意味がないと思うのですが。▼自分の生きる場所で、分析性や臨床性をどう生きられるか、という話です。
自分の職場を当事者的に(当事化的に)分析できて初めて、その分析が、病院環境の内在的分析と出会うこともできる。――私が理解する transversalité(横断性、ななめ性)というのは、そういう話です。*3
それぞれが自分のフィールドの当事化分析をしていなければ、transversal な出会いも生まれない。▼視野を開けばよいと言っても、《自分のフィールド》を分析できていなければ、「開く」と言っているそのこと自体がすでに制度論的に硬直していたりするわけです。*4
みずからへの分析を欠いた「開放」*5 や「臨床」は、かえって有害になるでしょう。
上記「第1回DG-Lab研究会開催報告(その2)」より:
この横断性概念の再構築を踏まえた上で、山森さんは『精神分析と横断性―制度分析の試み (叢書・ウニベルシタス)』から読み取れる限りでの制度精神療法/制度分析が実践すべき医療行為のプロトコルを提起されました。
本発表の元となった論文は近々雑誌媒体にて公表されるそうですので、詳細はそちらでご確認ください。
レポートを拝読する限り、「横断性」概念の説明に新規性が見られない(それどころか、すでに提出されていた核心への理解を欠いている)ので、それで「医療行為のプロトコル」だけが新しい、ということがあり得るのかどうか。