学問言説それ自体ゆえの疎外

↓こちらの呟きをヒントにしながら。



社会という語とそれへの「学問的あつかい」は、
単語側もあつかい側も変わる必要がないとされている。
しかし語としての「当事者」とそれへの扱いは違う。*1
いずれも変化を要求される。


その場合の変化は、私たちがぴったり即しながら生きるしかない時間にかかわっている。
私たちは、病棟の時間を生きるように生活の時間を生きる。数十年単位で病棟運営が変化してゆくのは当たり前だが*2、この意識だけでは病棟運営はできない。目の前の時間とともに容態や雰囲気が変化する、そこから離れない注意が要る。*3


学問を口実に病棟の時間から離れることはできない。*4
「教科書に書いてあった」は口実にならないが、かといって、「本人がそう言っている」も単に肯定できない。患者やスタッフの主体化に、その場で最初からやり直すモチーフが要る。*5


「学問」ではなく、技法を話題にせざるを得ないのはこういう理由。


学問言説の置きどころや役割を間違うと、疎外が生じる*6。――こうした条件と付き合いながら、主体化のありようそのものが(技法レベルで)問われている。



2014年2月13日 【追記】

《語としての「当事者」とそれへの扱い》と書いたことの意味が分からない、という声をいただきましたので(参照)、少し敷衍してみます。詳細は、もちろんあらためて扱っていきます。

    • (1)いまの日本語圏で、「当事者」という名詞が使われる。私は現状の使い方を、そのまま受け容れることはできない。
    • (2)語としての「当事者」の使われ方を描きとって、それをそのままレポートするだけのような記述が、この語の現状の使われ方を補強しかねない。
    • (3)対象を描き取ろうとする学問言説のふるまいが、検証もされずに棚上げになることは認められない。学問を標榜する言説は、言葉の環境を悪化させている重要な因子かもしれない。
    • (4)「当事者」という語は、日常の言葉づかいだけでなく、理論とされる言説の構造化にも大いに影響している。それを受け止めた上で、具体的に変えたい。
    • (5)「研究対象」と「研究言説」の両極を温存してしまう問題意識しかないなら――そのような言説事業がのさばってしまうことには同意できない。私は、対象と言説のどちらをも常に問い直しながら、組みなおしながら、の時間を生きたいので。
    • (6)私は、学問事業が生きる時間と、私たちの生活圏が生きる時間との乖離を問題にしている。たとえば「現象学的還元」は、生活圏での防衛反応ですらあり得る。




*1:《当事者》という名詞形に不都合を感じて、それを何とか動詞形に変えようとするのは、言葉遊びや語感の問題ではない。「本人たちが当事者という語を採用している」と、観察して終わるわけにはいかない。

*2:「社会」という語の事情が数十年単位で変化してゆくように

*3:たとえば分析哲学は、この時間を決して扱わない。

*4:現象学と看護をめぐる議論の多くには、この点で大いに疑問がある。現象学という言説事業の時間と、病棟の時間は、どう掛け合わさっているのか。

*5:勉強するのは、このやり直しのレベルを上げるため。

*6:契約や実定法との付き合い方も同じ。インフラや条文は役に立つが、適切なタイミングや付き合い方が必要。