私たちは、動詞それ自体について、技法を工夫できる。
ところがえんえんと、「名詞を探す」。*1
いつまでたっても、同じ知性の様式を反復してしまう。
たとえば、《分析する》 という動詞について
いろんな学派が「分析する」という単語を使いますが、
あれは作業過程としては、お互いでぜんぜん違いますよね。
有名なところでいうと、「精神分析」と「分析哲学」は、対立すらしています。
これは結論部分で意見が違う、というより、《分析する analyse》 という動詞のスタイルそのものに、対立がある。 同じ「analyse」という単語を使うのに、やりたいことが(というか、やるべきだと思い込んでいることが)違うのです。
そこで前提された作業様式を自覚もしないで(つまり、歴史的にも派閥的にも絶対視して)、「これが正しい思考法だから、これに従え」と言われても困る。その様式それ自体が悪さをしているかもしれないのに。*2
動詞と名詞をめぐる設計図
フーコー『言葉と物―人文科学の考古学』に「動詞の理論」という節があって(p.117〜)、古典主義時代の発想法について説明があるので、少し引用してみます(強調は引用者):
すべての動詞は 〈ある〉 être を意味する唯一の動詞に帰着する。他のすべての動詞もひそかにこの唯一の機能を使用するが、種々の限定によってそれを覆いかくしている。 (p.119)
動詞の機能は、その全体にわたりこの機能によってささえられた、言語の実在様態と同一視される。語ること、それは、記号を用いて表象すると同時に、動詞によって支配される綜合的形式を、記号にあたえることなのだ。 (p.121)
あらゆる語は、いかなるものにせよ、眠っている名詞である。動詞は形容名詞と 〈ある être〉 という動詞の結合したものであり、接続詞と前置詞は身振りを表わす名詞の固定したものであり、曲用と活用は他の語に吸収された名詞にほかならない。 (p.128)
名詞と動詞をめぐる前提設計に、歴史的な変遷があるとしても、
私たちの存在が名詞と動詞を含まざるを得ないのは未来永劫そのままです。
そこにどんな様式が生きられるか、
今の私たちが名詞や動詞とどう付き合っているかも、分析の必要がありそうです。
なまなましい目撃証言と、制度
廣瀬浩司『後期フーコー 権力から主体へ』pp.146-7 より(強調は引用者):
制度について直接的に語っている、もうひとつの文書を挙げよう。それは1971年のロレーヌ地方トゥールの刑務所における暴動の際の文書である*3。 精神科医エディット・ローズは刑務所の現状について証言し、解任される。当時「刑務所情報グループ(GIP)」で活動していたフーコーは、この報告を読み上げ、以下のようにコメントする。
- 私たちの制度は、内部から批判されると、むきになる振りをする。だが制度はそれを我慢し、それを糧として生きる。それこそ制度の媚態でありまた同時に粉飾でもある。しかし、制度が容認しないことは、誰かが制度にふと背を向け、内部に向かって大声で、「これこそ私がここでいま目撃したことだ。これこそが起きていることだ。これこそが出来事だ」と叫び始めることである(『ミシェル・フーコー思考集成〈4〉規範・社会―1971‐1973』p.153)。
ここで問題になっているのは、いわゆる内部告発にとどまるものではないし、監獄システム一般の批判でもない。それは、権力のシステムの内にいた精神科医が、その制度全般を批判するのではなく、これこれの日に、これこれの場所で、これこれの状況で起きていることを語ることである。こうして彼女は、権力諸関係そのものを明るみに出すような出来事を証言する。それはおそらく、かつては預言者などが担っていた「出来事の真理」を、現実的な制度の内部に見きわめ、それについて語り出すことによって、制度に内的な動揺をもたらし、それに対する意識をも動揺させるような言説である。
「出来事を証言する」というより、目撃証言そのものが出来事になってしまう。
言葉の編成をルーチン化するだけでは、
《証言》は、出来事として生成することを禁じられてしまいます。
私にとって《分析》とは、出来事としての目撃証言です。
これを、つまり目撃証言をどう救済するかが、決定的なモチーフになる。
《目撃》されるのは、単に「外側の何か」だけではないでしょう。
見るという体験そのものが、すでに悪さをしている。
それを内側から証言したうえで、何か別の形に変えないと。
動詞と名詞の設計図にこだわり、それを適切な形に変えようとすることは、
どうしても必要な救済事業です。*4
*1:そういうスタイルの動詞を生きてしまう。「努力するとは、こういうものだ」と思い込まれ、それがそのまま、あわれな硬直の姿になっている。
*2:私が名詞形の当事者論がまずいことに気づき、《当事化》と動詞形で考えたい、と言っているのは、この工夫です。
*3:ブログ注:「GIP : La révolte de Toul (1971-1972)」
*4:社会参加が、《生成としての目撃労働》の許されない形になっている。