(5) 【追記】 民族浄化ならぬ、当事者浄化

連続エントリ:


承前  名詞形の当事論は、《純粋な○○》 を探し始めます。
「より純粋な○○はどっちか」 の競争になる。*1
しかし動詞形で 《当事する》 と考えるかぎり、その衝動は起こりません。


多角的な当事がお互いを調べるのは、あくまで動詞形ミッションとの関係において、
つまり必要な変化との関係においてであって、「固定された性質」を記述するためではない。



名詞形にもとづく倫理は、差別と同じ

左翼系論者が差別をやめられないことと、名詞形「当事」論は、リンクしています。
彼らは、名詞形の概念枠をやめられないのです。
自分を否定するにも、相手を肯定するにも、いちいち名詞枠を持ち出す。
肯定と否定を反転させただけで、発想のしくみは右翼と同じです。

    • 「私はだから(否定されるべき)」 「私は日本人だから(否定されるべき)」 etc.
    • 「この人は○○だ、だから肯定し、支援しなければ」

ここでは、倫理的とされる思考のフレームと、差別的排除が一致しています。



カテゴリを操作する、メタ気取りの動詞

左翼系の発想を翻訳すれば、こういうことですね。

 自分のことは、カテゴリで否定する。その否定のそぶりは100%肯定されるし、
 それをやっている自分は、100%肯定されるべき。
 そういう否定をしないのは、弱者に対する抑圧者だ。

右翼の場合は、こんな感じでしょうか。

 あいつらのことは、カテゴリで否定する。その否定のそぶりは100%肯定されるし、
 それをやっている自分は、100%肯定されるべき。
 そういう否定をしないのは、同胞に対する裏切り者だ。



ここで、右と左をちょうどカップリングできることに注意。
左翼的な発想は、相手側の浄化主義に都合がよいのです。



自己否定にしろ反省にしろ、大きすぎる名詞の枠組みは、アリバイとしてしか機能しません。
本当に責任を負わされるのは、名詞形に還元できない形で自分がやった(やっている)ことでしょう。
そこで「男」「日本人」などのカテゴリ要因は、たんに検証すべき材料の一つであって、
カテゴリを全否定してみせたところで、自分の言動を反省したことにはなりません。

    • たとえば、強姦や妊娠中絶を強要するのはつねに男性ですが、「だから男はダメなんだ」というのは、加害男性がそれを言って、反省したことになるでしょうか。 「男」という大きすぎる名詞枠を持ち出したことで、かえって責任を回避していませんか。やったのはあくまで個人であって、責任には動詞形のディテールがあります。
    • 同様に、たとえば「ひきこもり」という大きすぎる名詞で肯定や否定をしても、あまり意味がありません。考えるべきは、それぞれのディテールで何が為されているか、そこから何を育てられるか、だと思います。




差別主義的な糾弾の特徴

  • (a)自分や相手を、大きすぎる名詞枠で捉えようとする。そこでしか倫理を起動できない。
  • (b)動詞としての自分を硬直させ、絶対化している。

(a)と(b)がセットになって、浄化主義を生み出します。


自分や相手を、大きすぎる名詞形で確保して、
それを操作するだけで、メタ・ポジションにいるつもり。
自分(の側)にかんする都合の悪いことを、ぜんぶ隠せると思っている。*2



*1:ひきこもり関連では以前、「偽ヒキ(にせひき)」という言葉が流行りました。悩む本人たちから自然発生的に出てきた言葉で、やはり名詞形であることに注意。「本当は引きこもっていないのに、自分のことを引きこもりだと自称する奴ら」ということで、要するに「それに比べて自分のほうがはるかに深刻」ということです。世間的な判断とは逆に、《より深刻に引きこもっていること》 が、ステータスになるのです。同様に、障碍の重さや被差別要因の大きさなどを比較して、「より深刻なほうが、マイノリティ性の純度の高さとして尊重される」 という判断は、今も日常的に機能しています。

*2:「人間を名詞形に還元しての概念操作」という意味では、医師や学者も同じことをやります。