連続エントリ:
- 第1回 「《つながりの作法》 としての差別」
- 第2回 「《不定詞の束としての人格》という考え方」
- 第3回 「生の様式そのものとしての不定詞 infinitif」
- 第4回 「差別と批判の見分け方」
- 第5回 「【追記】 民族浄化ならぬ、当事者浄化」(今回)
【承前】 名詞形の当事者論は、《純粋な○○》 を探し始めます。
「より純粋な○○はどっちか」 の競争になる。*1
しかし動詞形で 《当事化する》 と考えるかぎり、その衝動は起こりません。
多角的な当事化がお互いを調べるのは、あくまで動詞形ミッションとの関係において、
つまり必要な変化との関係においてであって、「固定された性質」を記述するためではない。
名詞形にもとづく倫理は、差別と同じ
左翼系論者が差別をやめられないことと、名詞形「当事者」論は、リンクしています。
彼らは、名詞形の概念枠をやめられないのです。
自分を否定するにも、相手を肯定するにも、いちいち名詞枠を持ち出す。
肯定と否定を反転させただけで、発想のしくみは右翼と同じです。
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- 「私は男だから(否定されるべき)」 「私は日本人だから(否定されるべき)」 etc.
- 「この人は○○だ、だから肯定し、支援しなければ」
ここでは、倫理的とされる思考のフレームと、差別的排除が一致しています。
カテゴリを操作する、メタ気取りの動詞
左翼系の発想を翻訳すれば、こういうことですね。
自分のことは、カテゴリで否定する。その否定のそぶりは100%肯定されるし、
それをやっている自分は、100%肯定されるべき。
そういう否定をしないのは、弱者に対する抑圧者だ。
右翼の場合は、こんな感じでしょうか。
あいつらのことは、カテゴリで否定する。その否定のそぶりは100%肯定されるし、
それをやっている自分は、100%肯定されるべき。
そういう否定をしないのは、同胞に対する裏切り者だ。
ここで、右と左をちょうどカップリングできることに注意。
左翼的な発想は、相手側の浄化主義に都合がよいのです。
自己否定にしろ反省にしろ、大きすぎる名詞の枠組みは、アリバイとしてしか機能しません。
本当に責任を負わされるのは、名詞形に還元できない形で自分がやった(やっている)ことでしょう。
そこで「男」「日本人」などのカテゴリ要因は、たんに検証すべき材料の一つであって、
カテゴリを全否定してみせたところで、自分の言動を反省したことにはなりません。
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- たとえば、強姦や妊娠中絶を強要するのはつねに男性ですが、「だから男はダメなんだ」というのは、加害男性がそれを言って、反省したことになるでしょうか。 「男」という大きすぎる名詞枠を持ち出したことで、かえって責任を回避していませんか。やったのはあくまで個人であって、責任には動詞形のディテールがあります。
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- 同様に、たとえば「ひきこもり」という大きすぎる名詞で肯定や否定をしても、あまり意味がありません。考えるべきは、それぞれのディテールで何が為されているか、そこから何を育てられるか、だと思います。
差別主義的な糾弾の特徴
- (a)自分や相手を、大きすぎる名詞枠で捉えようとする。そこでしか倫理を起動できない。
- (b)動詞としての自分を硬直させ、絶対化している。
(a)と(b)がセットになって、浄化主義を生み出します。
自分や相手を、大きすぎる名詞形で確保して、
それを操作するだけで、メタ・ポジションにいるつもり。
自分(の側)にかんする都合の悪いことを、ぜんぶ隠せると思っている。*2
*1:ひきこもり関連では以前、「偽ヒキ(にせひき)」という言葉が流行りました。悩む本人たちから自然発生的に出てきた言葉で、やはり名詞形であることに注意。「本当は引きこもっていないのに、自分のことを引きこもりだと自称する奴ら」ということで、要するに「それに比べて自分のほうがはるかに深刻」ということです。世間的な判断とは逆に、《より深刻に引きこもっていること》 が、ステータスになるのです。▼同様に、障碍の重さや被差別要因の大きさなどを比較して、「より深刻なほうが、マイノリティ性の純度の高さとして尊重される」 という判断は、今も日常的に機能しています。
*2:「人間を名詞形に還元しての概念操作」という意味では、医師や学者も同じことをやります。