「すでに生きているコミットメント」はどこへいったのか

日本の難点 (幻冬舎新書)

日本の難点 (幻冬舎新書)

はじめに」より:

 振り返ると、ポストモダン化を予兆して「境界線の恣意性」を問題にした二〇世紀的人文知(言語ゲーム論やシステム理論)から、一九九四年あたりから専門家に知られ二〇〇一年以降人口に膾炙(かいしゃ)した「コミットメントの恣意性」を問題にする二一世紀的人文知へと、転回したことになります。
 「境界線の恣意性」とは、「みんなとは誰か」「我々とは誰か」「日本人とは誰か」という線引きが偶発的で便宜的なものに過ぎないという認識で、先に述べた相対主義にあたります。かつて流行した「社会構築主義」や「脱アイデンティティ」といった物言いもこの系列に属します。「境界線の恣意性」はコミットメントの梯子外しをもたらします。
 これに対し、「コミットメントの恣意性」は、「境界線の恣意性」については百も承知の上で、如何にして境界線の内側へのコミットメントが可能になるかを探求することが大切だという認識です。認識が実践的には逆方向を向いていることが大事な点です。
 分かりやすく言えば、「境界線の恣意性」を問題にする段階が「素朴に信じてはいけない」という否定的メッセージだとすると、「コミットメントの恣意性」を問題にする段階は、対照的に、こうした否定性への自制や自覚を持ちつつ「コミットメントせよ」という肯定的メッセージなのです。
 「恣意性に敏感であれ!」という段階から「恣意性を自覚した上でコミットせよ!」という段階への変化です。

境界線の恣意性に気づくと、「どうせ恣意的だから」分析しなくてよい(シニシズム)。
コミットメントの恣意性に気づくと、「どうせ《あえて》だから」分析しなくてよい(決断主義)。
宮台氏の言っていることは、「新しくどんな思想を選びとればいいのか」という話になっているが、思想や行動を選びとるまでもなく、自分はすでにあるスタイルで生きてしまっている。 それを内発的に分節すれば、「あえて」相対主義を否定するまでもなく、労働過程がそこにある。

 相対主義の否定が不可能だと知りつつ相対主義を「あえて」否定するしかない――「普遍主義の不可能性と不可避性」とはそうしたことです。僕が今世紀に入ってから「ベタからネタへ」という言葉でアイロニズム(全体を部分に対応させつつ全体を志向すること)を推奨してきたのもそうしたことが背景です。(同「はじめに」より)

ネタである(あえてやっている)と主張されることは、それがネタであることを “わかっている” ようなメタ地点を温存しており、この地点はまったく分析されない。 いくら「あえて」やっていても、その「あえて」そのものが生きてしまう制度性(ベタな順応)があるのに*1、「あえて」などという自意識的なアリバイに居直ってどうするのか。 「あえて」のアリバイを共有して、ナルシスティックな共同体をつくるだけではないか。 宮台本の愛読者たちが、軒並み「わたしはメタ視点を維持している」という陶酔に浸るのは、ちっとも「ネタ」ではない。 ベタでしかない。
その「あえて」という名のベタ、そこで固定された生産態勢(本気性のあり方)をこそ分析せねばならない。 思想的な本気さは、すでにスキャンダルとして生きられてしまっている。 その「しまっている」という過剰性をこそ素材化し、そこに強引な制度を発見せねば。 ベタな過剰性(スゴさ)でつながるのではなく、分析の過剰性でつながること。 無意識的な本気さを、「本気で没頭された内発的な分節」に置き直すこと。


80年代型の知識人や自称フェミニストたちは、「境界線の恣意性」に気づいて「私にはわかってるもんね」に居直った。 それに対し宮台氏は、「わかったうえでコミットせよ」と言っている。 いずれも、「すでに生きているコミットメント」をなかったことにしている。 決断せよと言っても、決断より前にコミットしており、そこでかけている迷惑があるだろうに。 自分が身体をもって生きている当事者性を、どこに忘れてこいというのだ?

 「役割&マニュアル」優位の〈システム〉ならざる、「善意&自発性」優位の〈生活世界〉の大切さを弁え、かつ〈生活世界〉の保全のために貢献するような構えを広く涵養(かんよう)するためにこそ、学校における〈生活世界〉の回復や維持が不可欠だ、という循環を忘れてはいけません。(『日本の難点』p.70)

宮台氏が重視する「スゴさへの感染」は、《転移》として、精神分析周辺の文脈で危険さが語られてきた*2。 「よくわからないが、スゴイ人」への感染は、じつは徹底的な洗脳支配にも至りつく(そういう事例が現にある)。 決断主義への感染を推奨する宮台氏は、要するに「俺を信仰せよ」と言っている。 私たちがどういう「つながり」の作法を必要としているかについては、まったくナイーブな(ということは危険な)ことしか言っていない。 強度ある他者に感染し、みずからがそういう者であるために、「お前も決断せよ」というのであり、読者は「私もスゴくなりたい」というナルシシズムで感染する。 動機づけが、徹頭徹尾「自意識」の形をしている。


コミットしなくても、私たちはすでに制度的な反復に監禁されている(ひきこもっていてさえ)。 惰性だろうが「あえて」だろうが、自分が生きてしまう制度性を無視すれば、メタな政治理念で正当化されたベタなナルシシズムの反復がコミュニティを作るだけだ。 そのコミュニティは、内在的な問題提起を排除する――ひきこもる家庭内のように。(支援団体は、容易にその場所じしんが新たな引きこもりの場所になる。)


今の日本で、最も先鋭的に《生活世界の回復や維持》に取り組まざるを得ないジャンルの一つは、ひきこもり支援だ*3。 そしてその支援の現状は、ベタなコミュニティの群雄割拠状態にある。 商品を選ぶように、各団体が転移と順応スタイルの選択肢になるが、中に入り込んでしまえば、ベタな順応以外になくなる。
ベタなコミュニティは、いくらそれが知的に見えていても、自分たちがどういう承認ロジックを持っているかへの分析をしない。 内部での成功がベタに称賛されるだけで、《参加》プロセスそのものが臨床的に研究されることがない。 多様性を称賛しているように見えて、じつは内在的な分析を排除している(巻き込まれたら終わりだ)。*4


私たちは、メタ的に標榜すべき相対主義と普遍主義のあいだというより、参加と排除のあいだで直面する制作過程に苦しんでいる。 宮台氏のように、「参加できたあと」の輝きを提示されても、自己疎外的な自意識を強めることにしかならない*5。――本当に必要なのは、あるスタイルでの順応をベタに生きるコミュニティではなく、反復される《参加状態》が検証され、まさにその検証こそが参加の条件であるようなコミュニティではないのか*6
宮台氏の議論は、既存のひきこもり支援団体と同じく、ベタなコミュニティ・ナルシシズムを提案している。 ここには、目の前で着手する処方箋がない。 《つながり=生活世界》という目標だけが提示され、具体的な制作過程論がない。


【「母親のおかげで、ヤクザから恩恵を受けてきた」へ続く】




*1:ネタであることを正当化する制度

*2:フロイトを始祖とし、この100年ほど

*3:各々のひきこもり支援案は、提案者の共同体幻想のスクリーンになっている。 「この人は、こういう幻想を生きているんだなぁ」というような。 子供のころに遊んだ風景、土管のある空地、強くあこがれたひと…

*4:80年代からのフリースクール運動は、「成功事例の紹介」はしても、コミュニティで生きられる社会性をそれ自体として研究することはなかった(参照)。

*5:継続的な入門ができない。 参加していても、疎外感に苦しむことがある。

*6:「参加そのものを主題化する」という支援団体には、一つも出会っていない。 私にとっては、この本をめぐる出会いが、「参加そのものを主題化することによる関係性」の唯一の事例だった。