新刊: 『「ひきこもり」への社会学的アプローチ』 (正)

ueyamakzk2009-01-07

【参照:(序)

「ひきこもり」への社会学的アプローチ―メディア・当事者・支援活動

「ひきこもり」への社会学的アプローチ―メディア・当事者・支援活動

出版元の紹介ページ】 【bk1

推薦

ひきこもりを論じようとするなら、一度は通読しておくべき。 最初は情報のつながりが見えてこず、読むこと自体に苦労するが*1、ひきこもり周辺の事情について、ディテールと俯瞰的な視点を往復するのに役立つ。 本書には、現場の悩ましさをそれ自体として分節する努力があるので*2、この本の情報をていねいに読み取ったうえで、ご自分の取材や考察を通して、どう反論するかを考えてほしい。 たくさんある他の引きこもり本も、本書と比較すると位置づけが見えやすい。

反論の要点

本書には今後も言及すると思うが、私が取り組んでいる引きこもり論や活動が、そのまま本書への同意や反論になる。 特にここ1年半ほどの拙ブログや『ビッグイシュー』連載(参照)は、社会学からも学びつつ、そこに欠けているように見える焦点ばかり論じている。 本書への不満は大きく次の4つに集約され、それぞれは内的に関係する。

    • (1) ひきこもりでは、制作的な取り組みを本人の内側から見たところにこそ分析と方法論が要る*3。 本エントリーより前に、「斎藤環×岡崎乾二郎」の美術批評を先に取り上げた(参照)のはこのため。 学者の調査も、就労支援や本人の努力も、「作る」プロセスとその絡み合いであり、“実作者のプロセス” に即した議論が要る*4。 ▼石川良子氏*5(第4章)は、「居場所やひきこもりカテゴリーを当事者がどう扱うか」など、本人サイドが迷い込む《制作》の問題に着手しているが、いまだ「実存の観察」に終始している。 論じている石川氏自身が、学問ディシプリンと実存に解離し、「学問で実存を観察する」という手つきになっている*6
    • (2) 本人側の制作事情を問う以上、調査・論考を試みる研究者側もご自分の事情を分析いただかなければ、一方的な“観察”になってしまう*7。 本書には (I)学問ディシプリン (II)大学や社会学界 (III)ひきこもりという事象 等と、論者自身の関係を対象化するモチーフはないと感じた。 それゆえ、どうしても「学者がディシプリンに則って引きこもりを対象化している」だけに見えてしまう。 ▼たとえばひきこもり経験者同士の会話で、「信頼できる学者さんは○○さんぐらいで、あとはひどい人ばかりだ」などと話し合われることがあるが、本書のスタイルではこれを「観察時のエピソード」として記すことはできても、アカデミズム自体が不信を買っている内実を論究することは難しいのではないか*8。 《不信》は、ひきこもりにとって内在的なテーマにあたる。 この点を論じていただくのでなければ、ひきこもりは研究者にとって「他人事」に終わってしまう。
    • (3) ひきこもりのきっかけになり、逆に社会参加のきっかけでもある中間集団*9が、それ自体として主題化されていない。 第7章p.199- で「居場所」が扱われているものの、扱いが軽く、いまだ外部からの観察目線に終始している*10。 これは、ほかの論題と並ぶありきたりのテーマではない。 社会復帰を試みたときの最大の鬼門であり、その事情が内在的に検証される(検証が常態化される)必要がある。 ▼社会的排除をめぐる論者たちは、「性差別」「不安定就労」等の大きな政治テーマには強く、それは環境改善に必須の議題設定ではあるのだが、そういう大文字のテーマを扱う集団の中にすら適応できない人たちの存在については、何も考えない*11。 大文字の運動イデオロギーがすべてであり、それによって生じる中間集団の実態については、これほどトラブル(内ゲバ)が多いにもかかわらず主題化されない*12。 ▼曲がりなりに社会順応やコミュニティの作成に成功した人たち*13は、自分たちのやり方に問題があるとは考えず、ひきこもる本人は、「以前に失敗したやり方」しか知らない。 そして引きこもり関連の小集団には、トラブルが絶えない。――支援の具体案では、大文字のイデオロギーや「オタク化=嗜癖化」*14ではなく、中間集団の方法論こそが要る。 そこでは研究者自身が、どうやって大学や仲間、調査対象者との関係をマネジメントしているかも問われる。
    • (4) 支援業界や自助グループに絶えないトラブル、死亡事例など、「事情に詳しい関係者なら知っているのに、公的にはまったく言及されないこと」について、個別の事例を扱うのは無理でも、トラブルのタイプや、それを公的に扱えない理由について、一章を割くなどして主題化してほしかった。 それはひきこもりにおいては、臨床の方法論に直接影響する。 ひきこもること、そこから抜け出せないことは、この社会の営まれ方そのものが有する隠蔽体質と深くつながっている。 ここにおいてこそ、「社会参加するとはどういうことか、どうであるべきか」への原理的考察が可能になる。



これはむしろ、「本書を含む現状の引きこもり論への不満」というべきか。
社会学的アプローチ」と題された書物には、過剰な要求になるのだろうか*15




■■■■本書を読んでの、さらに詳細なメモ■■■■


調査主体の姿勢と、「作り手への批評」

業界の歴史、バラバラの事実情報やデータ処理などは、まずはどうしても必要だし勉強になるが、それだけでは、「結果を裁断している」だけになってしまう。 ひきこもり論は、メタ的観察だけでなく、悩む本人を「作り手」とみなした内在的批評*16になる必要がある。 これがないと、「言葉が蒸発して中仕切りできなくなっている」という本人の臨床事情が放置される。 精神疾患や障碍の枠(第8章)も、診断する側の態度で事情が変わってくる。
社会学者も、調査と論考において「作り手側」にいる。 学者とひきこもり経験者は、社会参加を続けようとする実作者としてモチーフを共有し、かつ実作者として、悩むディテールがちがっている。 そこを分析しなければ、ともに「役割のルーチンワーク」を全うするアリバイ作りで終わってしまう*17社会学の調査は、学問の役割を担いつつ、作り手(観察対象)のプロセスに付き合うような事業でなければ、「雲の上からの威圧」に終わる*18。 ひきこもる本人が自分をメタ的にまなざして苦しんでいるため(過剰な再帰的逡巡や自己否定*19)、これはそのまま臨床的要請でもある。 調査主体の姿勢は、業界の臨床事情に影響する。



《作り手/作品/批評家》どうしの関係としての、ジェンダーセクシュアリティ

性愛の周辺(p.182-3)は、ひきこもり経験者の多くにとって致命的な傷になっていながら、あまりに外傷的であること、至近距離にある親子の葛藤が介入することなどから、業界内ではほとんど扱われないままになっている。 この領域も、性的主体相互における「作り手/批評家」の関係*20と考えることを提案したい。 性愛では “当事者ではない” 人などいないし*21、そこでの承認関係が逆に政治的立場を浮き彫りにする。
結果的な “成果=商品” だけを見る人もいれば、日々の制作過程に付き合う人もいる。 自分を評価しない人が必ずしも批評家として優れているわけではないし、逆に「誰でも何でも受け入れる」ことは、批評としては欺瞞にあたる。 外見だけを整えても、あとに続く共同生活=共同制作に耐えられない。 きわめて私的に思える性愛も、時代や社会に規定され苦しめられる。 そして親たちは、言及を避けたがる癖にどうすればよいかを先に決めている。
下品な猥談の場からは、倫理的・政治的な葛藤が排除されている。 というより猥談は、内輪であることを確認する儀式になっており、その場で分析を口にすることは、コミュニティへの反逆にあたる*22。 幼稚な反体制派にとっては、猥談こそが「反社会的」なのだ。 分析による猥談の忌避は、反革命と見なされる。 ▼セクシュアリティを話題化する作法は、そのままコミュニティの作法になっている。

    • 【追記: ひきこもり経験のある方、特に男性に向けて】 「自分は差別されていない」という確信が持てるまでは、その場の異性に話しかけないほうがいい。 たとえば女性の一部は、こちらにひきこもり経験があることに気付いた時点で口をきいてくれなくなる*23。 それでも話しかければ、フェミニストはそれを「女性による差別」ではなく、「男によるセクハラ」と処理するかもしれない(「被差別民のくせに、女に話しかけるなよw」という警告を受ける)。 ひきこもった過去をもつ男には、一般男性と同じ行動は許されていないし、ひとたび被差別民の扱いを受けると、同じことをしても罪が重くなる。(ある男性フェミニストによれば、「童貞・ひきこもりで女に話しかけて嫌な思いをさせるのは、強姦して妊娠中絶させるのと同じ」だそうだ。) ▼本書 p.182-3 に記された「性的挫折」には、差別の問題も関係している。




集団とのかかわり――「支援とは、各人を政治化すること」

本書は、「個人が集団*24に合流する」ことの、政治的というほかない困難さに照準できていない。 とはいえこれは、ひきこもりが「交渉の硬直」であり、業界全体で見ても、本人側の活動があまりに貧困だからかもしれない。
支援について、「人間関係ができてそれから就労する」という段階的イメージを固定すると、「大事な問題提起をすると仕事も人間関係も失うことがある」という政治的要因が見られない。 社会参加を継続するとは、価値観や利害で交渉関係を継続することであり、あいまいな「第三空間」(p.235)は、その態度の涵養場所でもある。 逆にいうと、そのあいまいな支援空間が、露骨な政治的排除と不信感の醸成場所にもなる
本人側としては、「支援される場」での取り組みと、外部社会での格闘が、方法論としてもつながりをもつ必要がある。 支援される場では別格扱いされて大丈夫だが、社会に出たら対応できないというのでは、「社会参加=制作過程」の方法論を、内在的に見いだせていない。
「家族相談⇒個人治療⇒集団適応」という「治療の三段階」(p.187、斎藤環による説明)は、結果としてはあり得ても*25本人が取り組もうとするときの内側からのヒントにはなっていない。


斎藤環氏は「診断よりは良好な治療関係が大事だ」というが(p.224)、私は自分がひきこもりについていちばん大事だと思うことを口にして斎藤氏の怒りをかい、「仕事の場=中間集団」を失った(参照)。 私は、参加の場を内側から分節することを求めており、それが拒絶されることは単に個人的拒絶ではなく、政治的排除にあたる*26。――私の発言に怒りだした斎藤氏は明白に「政治的な」判断をしたのであり、彼の考える臨床的ケアとは別の態度を取っている*27。 ▼斎藤氏にとっては、政治性を排除して特権的に「ケアの対象にする」ことが最良の臨床的態度なのだろうが、私はそのような役割固定をフォーマット化することに反対している*28。 「良好な治療関係」は、父権的説教よりは受容的に見えるが、実はそこでは状況に対する本人の内発的な分節が禁止・排除されている。 逆にいえば内発的分節は、政治的チャレンジであるがゆえに、特権的にケアされることもない*29
私の言動に妥当性があるかどうかはそのつど検証されるべきことであって、PC的な「100%の正義」ではない*30。 この難しさはひきこもり支援に特有ではなく、現代社会そのものが、言説や人間関係のマテリアルで政治的な揺らぎを嫌っている。 ひきこもり支援の難しさは、現代の「社会化されることの方法論的難しさ」にかかわる。



「安心感と刺激」、「免責と帰責」――むしろその境界線で分節すること

 私たちはしばしば、「ひきこもり」本人*31の生活には安心感が足りない、あるいは逆に刺激が足りない、と考えてしまう。 本章で見てきた支援活動はいずれも、この両方が必要であることに気づいている。(p.210、中村好孝

問題は、安心感と刺激の中身だ。 私にとっては、状況や関係をリアルに分節してもいいという「安心感」や*32、鋭い分析を提示してくれる「刺激」が必要だ。 ▼単なる放置や追い出しは、政治的葛藤を排除した「安全と刺激」になる。 それでは、着手のための方法論を見出せない*33

 個人としての「ひきこもり」本人に対する全面的な帰責も、全面的な免責も、ともに回避されている。 「ひきこもり」は、単なる個人的解決を許さない社会問題であるが、同時に解決への個人的な試みが不可欠な問題であるようにも思える。(p.210、同)

運動家の口真似をして「社会問題」に解消しても、イデオロギー嗜癖しただけで、内側からの継続的方法論を見出したことにはならない。 「社会問題に解消できない」のは、そういう意味でもある。 単なる自己責任論ではなくて、本人の努力について、原理的方針を再検討すべきなのだ。 ▼そこは《思想》のキモにあたる。 ひきこもり問題への取り組みは、本人側にとっても《思想的試行錯誤》でしかあり得ない。



臨床のフォーマットそのものが、歴史的・社会的に用意される

ひきこもりは、交渉関係の拙劣さと、それゆえの権利侵害や過剰な泣き寝入りの相互関係を基本事情としている*34。 そこで、支援される側の犯罪的行為が過剰に黙認されたり、ぎゃくに支援者の独裁的抑圧が当然視されたりしている。 家庭を含むひきこもり支援の現場にこそ、政治や法の思想史や実学が要る。
私が、中間集団における関係を内在的に分節しようとしているのは、それ自体が政治的・法的取り組みであり、同時に臨床的な提言と実演になっている。ところがその分節成果の多くは、公開できていない。核心に迫る問題構造であればあるほど、関係者は公開を嫌がるのだ。この事情を考えることは、単に「ひきこもり支援」にとどまらず、人が社会に参加し続けるとはどういうことなのか、どうであるべきなのか、という提案や運動までもを含んでしまう。――本書を執筆されたお一人おひとりと、いつかそういう話題を共有できれば、と思わずにいられない。



*1:章分けにも意味がある。 読むのは、1日に一章ずつでいいと思う。

*2:担当する章のテーマのせいもあると思うが、とりわけ荻野達史氏の2本の論考に、現場の葛藤をつぶさに分節する姿勢を強く感じた。 それは、氏が「社会運動」を研究対象にされているからだろうか(参照)。 ひきこもり支援では、概念や問題のあり方そのものを再構成しなければならず、どうしても「運動」という面が出てくる。

*3:斎藤環は、そこで「嗜癖させる」=「オタクにする」という転移技法しか持たない。

*4:今回の私の論究も、本書ができあがるプロセスに内在的に分け入るべきだが、わずかしか成功していない。

*5:同氏による『ひきこもりの〈ゴール〉―「就労」でもなく「対人関係」でもなく (青弓社ライブラリー (49))』は、「存在論的不安」「実存的疑問」「ルーティーンの破綻」など、さらに詳しく本人側の主観事情を論じている。

*6:ひきこもる側も、医師や学者の側も、「批評的・内在的な分節の強度が、実存に置き換わる」必要がある。 このことの射程は、ひきこもり論にとどまらない。

*7:【参照】:「『ひきこもりの社会学』座談会について」、「協働サイト『論点ひきこもり』終了にあたって

*8:)で、本書の序章を引きつつ「自己言及的なフィールドワーク」と書いたのは、ややフライングだった。

*9:差別の問題も、直接的にはここにある。 イデオロギー的に硬直した反差別の方法論(左翼にありがち)では、差別を温存・補強してしまう。

*10:とはいえ、堀口佐知子氏の報告されている居場所の記述には貴重なディテールがあり、レポートそのものの価値をおとしめるものでは全くない。 私の反論は、それとは別の「問題化の構造」を要求している。 【参照:堀口佐知子「ひきこもり支援の人類学的考察―支援現場の事例より」】

*11:ひきこもりという事情は見下されがちだ。

*12:70年代の新左翼主義やあさま山荘事件は、まったく過去の問題ではない。 小集団をつくるとは、きわめて危険な行為なのだ。

*13:オタク系を含む。 オタク化を推奨し、「中間集団が大事だ」という斎藤環は、中間集団の困難さをまったく主題化できていない。 彼には《制作過程》のモチーフがなく、嗜癖対象の共有によるコミュニティ作成しか視野に入っていないからだ。

*14:斎藤環による提案

*15:それは、どのていど「社会学そのものの限界」なのだろう。 たとえば宮台真司は先日『14歳からの社会学 ―これからの社会を生きる君に』を公刊したが、これは社会学の装いをもった自意識教のパンフレットに見える。 一部の社会学者はこれを称賛し、稲葉振一郎は「若い人向けの人生論として出色」などと語っている(参照)。 社会学には、制作的な態度についての内側からの方法論を期待できないように見える。(「学問」があって、あとはそれと解離した“人生論”しかない。つまり、プロセスを主題化する臨床的-政治的モチーフがない。)

*16:社会参加は、「つくる」プロセスそのもの。 ところが今は、「作られた自分を売り込む」というロジックが知識人言説を支配している。 実作者の制作過程に付き合うような、「プロセスの話」がない。 リベラリズムといっても、結果物としての本人を囲い込む(ちやほやする)だけだ。 ▼私はさまざまな論者を、「メタ言説と人生論の人」か、「作るプロセスを内側から論じている人」かで見分けるようになっている。

*17:アリバイ作りに終始する研究態度では、本質的なトラブルが生じてもそれを「分析する」のではなく、抑圧・隠蔽してしまう(参照)。 社会参加そのものを主題とする「ひきこもり」では、これは研究フレームそのものの放棄にあたる。 ▼こういう状態は、ジャーナリズムにも見られる。 取材者である自分の側は取材対象にならず、一方的に「見る側」を維持できると思っている。 医師・学者・ジャーナリストなど、一方的に「見る側」の特権を確保された人たちをこそ、フィールドワークし、批評しなければ。

*18:外部から結果だけを “観察する” ような調査は、自分の視線が苦痛の共犯者になり得ることを忘れている。 そこでは、「学者と当事者」という役割が峻別され、そのくせ「私にも引きこもり傾向があるから、当事者だ」と自意識レベルでコミュニティ参加のアリバイが作られ、利用関係が押し付けられる。 それは「自意識の連盟」であって、モノ同士が同居しているにすぎない。 ▼とはいえ引きこもる人には、その「ナルシシズムの連盟」をこそ求める人もいる。 ひきこもったいきさつをもつ人たちは、結果的にバラバラの思想的立場に分かれてゆく。

*19:過剰な自己否定は、自分をまなざす目線をメタ的に固定している。 つまり、ある考え方を「社会の内側」として絶対視している(三脇康生郡司ペギオ-幸夫ふうに言えば、自分の存在のマテリアルを無視している)。 この傲慢なメタ目線そのものが社会的に構成されているが、本人はそのことに気づいていない。 過剰なメタ目線を「自分の目線」として生きている。

*20:自分を性的存在として作り上げ、評価し合う

*21:この降りられなさは本当に厄介だ

*22:猥談による一体感を求められる場では、倫理的なセクシュアリティ論こそが「セクハラ」の扱いを受けかねない。無条件で肩を組む「横断性」の下品さこそが笑顔で承認される。――まったく逆に、倫理的なセクシュアリティ論こそが、暴力的な猥談をセクハラとして告発しなければならない。ここでは、性別は絶対的な参照枠ではない。

*23:単に「非モテ」というに留まらない線引きがされるらしい

*24:「集団」には、家族まで含めて論じる必要がある。

*25:うまくいったケースを、成功した地点から事後的に考えればそういう事情になっていることがある

*26:私は公的には斎藤環氏を批判しているが、その前の段階で私的なトラブルがあったわけではない。 他の人については逆で、「公的には仲が良いことになっているが、実は揉めている」ケースが多い。

*27:私は斎藤環氏との間で治療契約を結んでいない。 仮に、私と同趣旨の言動を斎藤氏の担当患者さんがとられた場合、どういう臨床的対応になるのかが気になっている。

*28:状態像へのリアルタイムの配慮から、「何も言わず、そーっとしておく」という判断は当然あり得る。 ここで問題にしているのは、考え方や努力の基本方針だ。

*29:内発的分節によって政治化された個人は、親や支援者とは別の交渉主体になってしまう。 ▼私は、「法化・政治化」による再参加を考えようとしているのだが、考えてみれば日本の教育は、個人が「法化・政治化」されることを何より嫌ってきたのではないだろうか。 「政治化せずに社会参加せよ」というダブルバインドこそが、社会参加をめぐる最悪の縛りに思える。(左翼集団は、自分たちの闘争イデオロギーに巻き込んで内部化するだけであり、やはり「分節による政治化」は禁止されている。それでも分節を試みれば、粛清の対象になる。) ▼医師・学者・支援者に逆らわず、ロボトミーされた個人になって社会復帰を目指すほうが実益的に良いはずだ――それを持続的に選べるかどうかが、社会復帰を目指す側の分岐点であると思う。私自身は、ロボトミーされればされるほど、自分の存在を抹殺する方向に向かっているように思えてならない。とはいえその固執は、私を政治的攻撃対象にしてしまう。大事な話をしようとすればするほど、彼らは私を消そうとする。(分節による主体化を試みれば他者が私を抹消する。あきらめれば自分で自分を抹消する。)

*30:硬直したリベラリズムを標榜しても、政治理念への依存症にすぎない。

*31:名詞形の「ひきこもり」を、ひきこもる本人と同一視する呼び方はまずい。 2001年に受け入れた拙著タイトル『「ひきこもり」だった僕から』は、その意味で拒絶するべきだった。

*32:役割嗜癖や怨念系の独りよがりに陥っている人は、分析すると怒り出すのだ

*33:本人が方法論を見出したあとには、追い出しや「場所替え」も有益であり得る。 本当に問われているのは、「○○であるべきか、××であるべきか」という固定された大枠ではなくて、リアルタイムの配慮のための方法論だ。

*34:あまりに過激な自信のなさは、かえって傲慢だ。 マテリアルな自分の存在を放置している。――ここに必要なのは《制作》の方法論であり、即物的な化学物質に頼っても制作過程は見えてこない。