現場の解離、思想の解離

ueyamakzk2008-09-30

同じ9月28日に京都であった2つのイベントを、続けて聴きに行った。



MAXI GRAPHICA/Final Destinations ■ 「活動形の版画はいかにして可能か?」*1

現代美術に関するトークショーに参加したのはこれが初めて。 私としては、自分が消費者としても作り手としても動機づけをもっているとは言えない作品活動を続けておられる方々の、その動機づけの部分に興味があったのだが、作り手の皆さんご自身が、とても神経症的に参っているように見えた。 何のためにこれをやっているのか、これからどうしていくのか、マーケットとの関係は。 MAXI GRAPHICA(マキシグラフィカ)*2で中心的な役割を果たしてこられたという木村秀樹氏は、「いっそのこと美術家集団を株式会社化して、業績に応じて給与や地位を変えればいいのでは」という(大意)。
相対的に若い世代の作家である吉岡俊直氏は、「今日は MAXI GRAPHICA の最後ということで参加したが、そうでなければ断わっていたと思う」といい、それは「作家として瞬発力を保ちたいから」だという(大意)。 個人として作品を作ることと、集まって一つの方向性を維持することが相容れないと捉えられている。
ここに、神経症的迷走の基本構図があると思う。 作品創造の意味付けや方向性を、“客観的に” 考えているらしいのだ、どの作家の方も*3。 だから集団はつねにそれを「押しつけてくる」存在であり、「オルグされること」であり、個人でいなければ意味からは自由になれないとされる。
むしろ、分析的な取り組みの集団的強化という方向性が必要ではないか?


そこで三脇康生氏が紹介した、フランス留学時に若い学生から怒鳴られたというエピソードが意味を持つ。 三脇氏はリオタールを話題にし、「大きな物語は終わったのだから、あとは各人がバラバラに小さな物語でやるしかない」という、日本ではオーソドックスな理解を口にしたらしいのだが、そのフランス人学生は激昂し、次のように説明したという(大意)。

 リオタールはそんな馬鹿じゃない。 彼が言っていたのは、「恣意的に好きなことをやればいい」ということではなく、大きな物語がなくなったからこそ、どうすればいいかを一人ひとりが考えなければいけない、そのつどしっかり分析して抜け道を見出さなければいけない、ということだ。 彼の本は『ポストモダンの条件』というが、これは私たちが引き受けざるを得ない「条件」の話をしたのだ。 そこに居直れという話ではない。

ここにいう「分析」を、客観的な真理にかかる何かと理解すると間違う。 「何のために分析するのか」と、またしても大きな物語探しが始まる。そうではなくて、目の前の場面ごとにその場のあり方を分節する、その分節のプロセスがそのまま目的の強度を持つ、そういう分析を過程として生き切ることが問題になっているのだ*4。 これが1980年代の思想ブームでは全く伝わらず、ただ客観的な大きな物語を捨て去って勝手にバラバラにやればいい(スキゾの全面礼賛)というバカな話にしかならなかったから、現代の思想的迷走がある――そういう説明だった*5
細かい作業に分け入る前に、正当化の《方針》そのものが間違っていたのではないか、という決定的な問題提起に思えるし、これは作品作りだけではなくて、メンタルなケアについてもまったく同様の迷走が問題になっている。 一人ひとりがバラバラに生きればいいのか、大きな全体性に回収されればいいのか。――「ものをつくる」というプロセスへの批評的な介入と、精神医学的な臨床活動は、「応用」という関係にあるのではなくて、同じ取り組みそのものなのだ



第2回こころの広場「引きこもりと教育臨床」

会場に着いたのは終了の30分前だったが、パネラー三氏の発言と、会場からの質問、それへのレスポンスを聞けた。
私はここ最近は斎藤環氏を批判しているのだが、それ以前にそもそも引きこもりや不登校の周辺にあるのは、こういう文化だよなぁ…と、あらためて絶望させられるような雰囲気。

  • 大枠の現状批判的な左翼イデオロギー
  • やんわりとした宗教の装いをもった癒し言説
  • 「戦後の日本に、真の教育はあったのか!」という親御さんの政治演説

こういったものが混在していて、分析だけがない。 断片的には勉強になる専門知識も、すでにある認識構造を補強しているだけ。 決意だけは漂ってくる、和やかな抑圧空間。
会場からは「20年ひきこもっていた」という男性が発言したが、「もっと早くに引き出してほしかった。無理やり学校に行かせるのも方法の一つだと思う」という(大意)。――ここで、憑き物が落ちたようにはっきりしたのは、ひきこもりの経験があろうがなかろうが、この問題で口にされる「議論」なるものは、たいていそれ自体としては聞くに値しないということだ*6。 語っている本人にとっては癒しの効果とか社会参加の充実感はあるのだろうが、あまりにどこに行っても同じ話ばかりだし、それがきっちりと言説状況を悪化させる。 精神の環境を、悪いままに維持している。 あれは、語っているご本人に自覚はなくても、あからさまな政治行動なのだ。 本当に、同じ映画をリピートしているのかと思うほどどこの会場でも同じ発言が出てくるが、そのことへの批評がまったく機能していない。 既存の文化がにこやかに「当事者」を迎え入れ、その歓待だけで話が終わってしまう。

ものすごい既視感だ。 80年代に10代の不登校少年として直面していた文化が、そのまま目の前にある。 ポストモダンもへったくれもなくて、この業界の一部では20年以上前からなにも変わっていない。 若い世代のメタ言説はこういう部分には届かないし、じっさい届いてもしょうがないような言説作品しかない。 それぞれが解離的に棲み分けたまま、リアルな苦しみはずっと続いていて、状況を体現するようなトラブルは隠蔽されたまま。 要するに、全員の排他的なナルシシズムが棲み分けているだけではないか*7。――「社会に順応する」という課題を背負った業界の停滞が、思想状況のダメさ加減をそのまま体現している。


この二つのイベントに同日中に参加したのは、解離状況をリアルに体感するのに正解だった。



*1:告知等では「活動の版画」となっていて、誤植であることが伝えられた。

*2:「版画表現の可能性を最大限に追求することを目的に1987年に京都を拠点に結成された」(参照)。――「MAXI GRAPHICAは何だったのか」という説明自体が、会場では問い直されていた。

*3:ただ、三井田盛一郎(みいだ・せいいちろう)氏だけが、異質な話をされているように感じた。 【作品例1】、【作品例2

*4:浅田彰宮台真司が問題にしている《強度》とまったく違う。

*5:これはすべて私の理解で意訳している。 ▼三脇氏によれば、来年には合田正人氏によって『Discours, figure』が翻訳されるらしく、それでリオタール像が大きく変わるだろうとのこと。

*6:フィールドワーク的に聞いておく意義はあっても

*7:いわゆるボーダーや自己愛系の “人格障害” 者は、この状況に最も鋭い制度分析を加えている人たちかもしれない。 システムの隙間に入り込み、信じがたいほどの巧妙さで人を傷つけ、信用を破壊してゆく(参照)。 硬直した制度順応しか知らない業界の雰囲気は、こうした行為に好都合な環境を与えている。 各人が自分の状況に分析と風通しを与え、その分析同士が連携する人的環境があれば、下らない嫌がらせなどあり得ないはずだ。