ごあいさつ

これまでご閲覧いただいてきました、協働サイト『論点ひきこもり』は、終了いたします。 5月16日以来、サイトが閲覧できなくなっているのですが、以前から決定していた契約期限の都合で、ドメイン自体が2008年5月31日に消滅いたします。
本来は、サイトが閲覧可能な状態で、サイトそのものにご挨拶文を掲載する予定だったのですが、私の作業ミスにより、サイトの管理画面にすらアクセスできなくなっています*1。 申し訳ありません。
今回のサイト終了については、突然の気まぐれではありません。 準備段階となる問題提起は、2007年10月初旬から始まっています。


以下は、協働サイトのTOPページに掲載が決定していた、サイト全体としてのごあいさつ文です。

サイト終了のごあいさつ



 協働サイト『論点ひきこもり』は、ある討論サークルの人間関係を母体に、2005年10月に発足いたしました。その運営や取り組み方について、スタッフ間で協議を続けて参りましたが、このたび、協力関係を解消する運びとなりました。


 当サイトは、2008年5月31日をもって閉鎖いたします。
 これまでご閲覧をいただき、ありがとうございました。


  代表・スタッフ一同

    • ※当サイトに掲載されているコンテンツは、こちらのサイトにて、今後も閲覧が可能です。インタビュー対象者の皆さんからは、クリエイティブ・コモンズのライセンス(「原典表示−非営利−改変禁止」)に基づき、利用許諾をいただきました(快くご了承いただき、ありがとうございました)。










*1:ドメイン管理会社にも問い合わせ、おおよその原因は分かっているのですが、スタッフ相互のトラブルもあって、可能な対応策が講じられておりません。申し訳ありません。

これまでのいきさつと、今後について

今回の閉鎖決定は、単なる惰性や、一時的な気の迷いといったものではありません。上にも記しましたが、サイトをめぐる私からの問題提起は、2007年10月初旬に開始しており、それ以後、たいへんな時間とエネルギーをつぎ込んできました。

協働サイトの終了にあたって、私はスタッフそれぞれの文章がサイトに掲載されることを望んでいました。以下の文章は、そのために私が起草したのですが、共同管理者である井出草平id:iDES)氏により、掲載を拒否されたものです。文案は4月中旬から提示し、修正希望があれば応じる旨を伝えたのですが、私の文章には「事実誤認」があり、しかし何がどう誤認であるかは示せないとのこと。また、全体のあいさつ文以外には掲載を認めないとのことでした。

井出草平という大学院生に対してのみ膨大な研究協力を行なったいきさつについては、井出氏のご希望により、お話しすることができません*1。 そこには、人間関係のあり方についての本質的な検討材料があり、「ひきこもり」そのものについても、重要な素材を提供するはずです*2。――サイトを運営していくにあたって、スタッフ間の関係事情について《検討=論点化》ができないことが、私の取り組む臨床論への強い抑圧となり、サイト解体への直接の引き金となっています(これについては、臨床論の要である《論点化》と、社会学ディシプリンの関係として、以前に論じたことがあります)。 逆にいうとサイトを通じて、私は《論点化》*3こそが、本当に決定的なことだと改めて思うようになりました。
協働サイト『論点ひきこもり』は閉鎖しますが、「論点としてのひきこもり」という考え方については、私はこれからも取り組んでゆく所存です。むしろ、その点でごまかせないと観念したからこそ、サイト解散を決めたのだとも言えるでしょう。サイト活動にご期待を下さった皆様には、ご理解とご寛恕をいただけますよう、切にお願い申し上げます。



【以下は、協働サイト終了にあたって起草した文章です。】




 《順応》を主題化すること    代表・上山和樹


 ひきこもり経験者を含む数名のメンバーで出発した当サイトは、事後的に考えてみれば、共有された指針が存在しなかったというべきなのだと思います。実質的な運営者としては、私と井出草平氏(大阪大学大学院・博士後期課程・社会学)の二人だけが残ったのですが、私からの長期にわたる問題提起のあと、協力関係の解消を要求しました。
 当サイトの経験から学ぶべきことはたくさんあり、今後も反芻を続けます(それこそが私にとって、タイトル『論点ひきこもり』の本義です)。事情のすべてを公に語ることはできませんが、現時点で可能な範囲で、メモを記しておこうと思います。


 まず、私自身の反省点について、箇条書きにしてみます。

  • (1) 「とにかく一緒にやってみる」という、前向きな気持ちに頼りすぎた。無理に関係を維持することを自己目的化し、分析や違和感を表明するより、表面的な友好関係を優先させた。周囲のナルシシズムに譲歩することを、みずからの社会性と勘違いした。他者を直接的に肯定しようとするだけの、虚偽の寛大さに陥った。
  • (2) 生物学的アプローチを主流とする精神医学や、イデオロギー優先の運動体言説との葛藤は、目の前でくり返される。お互いの関係ロジックを論点化しようとする振る舞いが、アカデミズムの権威主義や、差別的な当事者主義と対立することを、自覚しきれていなかった。
  • (3) 自分たちの関係事情の分析は、ナルシシズムに抵触し、強力な心理的防衛に出会う。自己矛盾は放置され、本人の思い込む「誠実さ」がそのまま防衛になる。 そうした事情に気付けないまま、「とにかく良心的に分析すればよい」という楽観主義でいた。ていねいな分析(論点化)は、むしろ関係を壊乱してしまう。



 ――協働サイト『論点ひきこもり』を通じて、私は在野とアカデミシャンの協力関係を模索するとともに、ひきこもり臨床にとって最も大切だと思う試行錯誤を実演したのでもありました。硬直した上下関係をいきなり導入するのではなく、自分たちの関係のあり方自体を検証し、そこで「社会参加」について自己言及的に問い直してみること。
 実際には、それはできませんでした。社会参加に難を感じるスタッフの間では、「関係を考え直すこと」よりは、「順応そのもの」が目指され、不安が強まれば強まるほど、自分の事情を考え直すことができません。指針がうまくつかめない間は、社会的な逸脱を経験した人ほど、強迫的な規範順応に傾きがちです。


 井出草平氏は、ひきこもりや摂食障害に苦しむ方について、強迫的な規範順応の問題を論じるのですが(cf.『ひきこもりの社会学』)、ご自分自身の規範順応については、論じることを拒否された。つまり、研究対象とご自分とが階層(レイヤー)として分けられ、「論じている自分自身」については、順応事情が検討されないわけです(このことは、他の多くのアカデミシャンや支援者にも見られます)。
 そこから具体的には、次のような問題が生じました。 (1)アカデミズムへの順応において、在野的・現場的な分析(論点化)を見下す。 (2)精神医学に関して主張される「学問的な正しさ」が、支配的なディシプリンへの順応でしかない(参照)。――これでは、サイトをめぐるお互いの関係事情を検証できないし、ディシプリン自体が紛糾する精神医学や、それとの関係にあるひきこもり支援について、原理的に考え直すこともできません。一方的に制度順応を押し付けられるだけです。


 ひきこもりにおいては、社会や人間関係への《順応》それ自体が主題となっています。時代や周囲の考え方は、「何が順応であるのか」の方向付けを決定し、臨床の事情を左右するのですから、《順応》それ自体を問い直す必要があります。すでにある制度順応が実演され、推奨されるだけでは、社会参加の事情そのものを検討することができません。
 強迫的に順応だけを目指すことと、「何が順応なのか」を問い直しながら試行錯誤することは、違う努力であるはずです。――サイト運営を通じて私が直面した問題は、ひきこもり支援の難しさであるとともに、「ひきこもりの専門家」に期待するものの難しさでもあるのだと思います。


 協働サイトは閉じますが、私はこれからも、「論点としてのひきこもり」に取り組みつつ、試行錯誤を続けます。今後とも、よろしくお願い申し上げます。


 上山和樹




*1:井出氏に出会ったのは、彼がひきこもり研究を始めた2005年初頭に、個人的に受けたインタビューが最初です。2007年に出版された井出氏の著書『ひきこもりの社会学 (SEKAISHISO SEMINAR)』では、取材対象者「鈴木さん」が私です。

*2:サイトをめぐる考察のほとんどは、そうした関係性の考察に費やされました。 それは、《当事者的論点化=制度分析》の実演そのものです。

*3:当ブログでは、自分の置かれた場所における当事者性の分析とか、「制度分析」として論じてきたことです。 ここでは、「弱者性としての当事者性」とは別の当事者性が問題になっています。