「超自我」 Über-Ich(独) superego(英) surmoi(仏)

精神分析事典』 p.317

 われわれの心的人格の審級で、その役割は自我を裁くことである。
 超自我という述語は、1923年、フロイトにより『自我とエス*1の中で導入された。 超自我は第二局所論の主要な刷新点であった。 『続精神分析入門』(1933)において、フロイトはこの点に関する記述を与えている。 「私は、自分を満足させるのに相応しい何らかの行為を実現したいと思うが、わたしの意識の反対のために、それを断念する。 あるいはまたさらに、わたしは何らかの強い欲望に屈した。 そして、ある種の悦びを体験するために、意識が拒絶するある行為を行なった。 一度行為が成就されると、わたしの意識は、その非難によって改悛の情を引き起こす・・・」。 われわれの行為を抑制し、後悔を生じさせる超自我は、「われわれの心的機構の司法的審級」である。 それゆえ超自我は道徳的問題の中心に位置する。



精神分析事典』 p.319

 ラカンにとって超自我は、主体によって内在化された命令の一部を成す。 しかしそれは、象徴界の仲裁的な法に比べて一貫性がなく、法外な言表である。 このように超自我は、主体を快感原則の彼方*2へ赴かせるものでもある。 それは、主体にむしろ《享楽》を命ずるであろう。

「公正さ」を目指す《交渉・契約》が、超自我の狂暴さに比べて有益である理由。
ただしそれは、「他者とのあいだでの関係調節」であって、本人自身の実存管理としては、《享楽》に向かう超自我的狂暴さが必要。 再帰性は、超自我の命法にかかわる。





*1:リンク先は、山竹伸二氏によるまとめ。

*2:上山注: ここで問題になっているのは、「死の欲動」である。【参照

フロイト「文化への不満」(1930)

フロイト著作集 3 文化・芸術論』 p.482-3

 そしてこの段階になってようやく、まったく精神分析的で、われわれの通常の思考にとっては思いもよらないような考え方が登場する。 この考え方に立ってはじめてわれわれは、われわれがいま論じている問題がなぜこんなに混乱した正体不明のものとしか思えなかったのかの理由を理解する。 すなわちこの考え方によれば、なるほど最初は良心(もっと正確にいえば、あとで良心になった不安)が欲動断念の原因であったが、のちにはこの関係が逆になったのである。 そして、欲動断念が行なわれるたびに、それは良心の尽きぬ源泉となり、新たな断念があるたびに、良心の峻厳さと不寛容とはますます増大する。 そして、われわれがすでに知っている良心の発生史と矛盾さえしなければ、われわれは、「良心は欲動断念の所産である」とか「(われわれに外部から強制された)欲動断念は良心を生み、今度はこの良心がいっそうの欲動断念を要求するのだ」といったパラドクシカルな主張をしたいという気持ちに駆られるほどである。
 本当をいうと、この主張とこれまでに述べてきた良心の発生史のあいだの矛盾はそれほど大きなものではなく、また、この矛盾をさらに小さくする方法もないわけではない。 叙述を簡単にするため、例を攻撃欲動だけに限り、いまの場合、攻撃欲動の断念だけが問題になっているものと仮定しよう。 もちろんこれは、当座の仮定にすぎないものとする。 すると、欲動断念の良心への影響は次のようにして行なわれる。 満足させられなかった攻撃欲動が持っている心理エネルギーはすべて超自我に引きつがれ、超自我の(自我にたいする)攻撃欲動を強める。

ひきこもる本人が、自分で自分を許せない理由。
また、世間がひきこもりに殺意を持つ理由。





「死の欲動」 Todestrieb(独) death instinct(英) pulsion de mort(仏)

面白いほどよくわかるフロイトの精神分析―思想界の巨人が遺した20世紀最大の「難解な理論」がスラスラ頭に入る (学校で教えない教科書)』 p.241‐2、立木康介氏の記述より

 「死の欲動」の概念は、フロイトによって、かつての「性欲動」と同じやり方で探求されたわけではなかったので、その構造や機能についてはまだ明らかになっていない部分もあります。 しかし、フロイトは、大雑把にいって、次のような主張を行ないました。 「死の欲動」は、それ自体は生命体の中で沈黙していて、「生の欲動」と結びつかなければ、私たちには感知されません。 けれども、「生の欲動」が生命体を守るために「死の欲動」を外部へ押し出してしまうと、「死の欲動」はたちまち誰の目にも明らかに見えるようになります。 それは、他者への攻撃性(暴力)という形をとるのです。 ところが、他者への攻撃には、当然危険も伴います。 他者が仕返しをしてくるかもしれないし、別の仕方で罰が与えられるかもしれません。 それゆえ、これはとりわけ人間の場合ですが、自我は他者への攻撃を断念して、「死の欲動」を自分のうちに引っ込めるということも覚えねばなりません。 しかし、自我の内部には、この自分のうちに引っ込められた「死の欲動」のエネルギーを蓄積する部分ができ、それがやがて自我から独立して、このエネルギーを使って今度は自我を攻撃するようになります。 この部分のことを、フロイトは「超自我」と名づけました。 「超自我」は、フロイトによって、もともと両親(とりわけ父親)をモデルとして心の中に作られる道徳的な存在として概念化されていましたが、フロイトはここに至って、超自我のエネルギーが、実は「死の欲動」に由来するという考え方を示したのです。
 今日の社会状況の中には、「死の欲動」の存在を裏づけるかのような現象が頻発しています。 それはたんに、凶悪犯罪やテロリズムの増加といったことばかりではありません。 超自我のメカニズムは、鬱病や依存(中毒)といった病理に密接に関係しています。 私たちはいまこそ、「死の欲動」の概念と本気で向かい合わねばならない時代にさしかかっているのではないでしょうか。

依存症、摂食障害鬱病なども視野に入っている。
強力な規範との関係におかれた心的苦痛。

参照:柄谷行人氏の超自我理解

 これまでの見解では、超自我は「外から」到来し内面化されたものである。 つまり、他律的である。 ところが、新たな見解によれば、超自我は、むしろ「内から」生じる。 それは攻撃欲動が自らに向かうことによって形成される。 つまり、超自我は自律的なのである。

引用は、『定本 柄谷行人集〈4〉ネーションと美学』p.73 より。





フロイト 「反復強迫」 Wiederholungszwang (独)  repetition automatism (英)  automatisme répétition (仏)

「快感原則の彼岸」(1920)より。
フロイト著作集 6 自我論・不安本能論』 p.159

 神経症患者の精神分析的治療のあいだに現れるこの「反復強迫」をよく理解するためには、まず第一に、抵抗を克服する際には「無意識」の抵抗とたたかわねばならないという誤解を除くことが必要である。 無意識、つまり「抑圧されたもの」は、けっして治療の努力には抵抗しない。 それどころか、ただ重い圧迫にさからって、意識に達しようとしたり、実際行動によって放出しようとつとめるだけである。



p.169上段

 災害神経症者の夢が、患者を規則的に災害の場面につれもどすとき、それは願望実現に役立ちはしない。 彼らにとって、願望を幻覚として実現することは、快感原則の支配によって、すでに夢の機能として成立しているのであるが、しかしわれわれは、災害神経症者の夢は、快感原則が支配しはじめるまえに、解決されねばならない別の課題に役立つものと仮定してよいであろう。 不安の発生がとだえたことが、外傷性神経症の原因になったのだから、これらの夢は、不安を発展させつつ、刺激の統制を回復しようとするのである。 このような夢によって、われわれは心的装置の一つの機能について見通しをもつことができる。 その機能は、快感原則に矛盾することなく、しかもそれからは独立しており、快の獲得や不快の回避の企て以上に根源的なものと思われる。

「不安の発生がとだえたことが、神経症の原因になった」という記述に注意。
ということは、不安が継続していれば、神経症は回避できる。*1


p.169下段〜

 これらの夢はむしろ、反復強迫にしたがうものであり、この反復強迫は、分析のさいには、当然のことながら、「暗示」によって促進される願望、すなわち忘却されたものと抑圧されたものとを呼び出そうという願望に支えられる。

 外傷的印象を心理的に拘束するために反復強迫にしたがうような夢が、分析のほかの場合にも可能ではあるまいか? この問いは一も二もなく肯定される。



「終わりなき再帰性」は、それ自体が構造的な反復強迫
再帰性を潰したり減衰したりするのが既存のひきこもり支援だが、私は、倫理的モチーフとしての「死の欲動」を肯定する立場から、再帰性の枠組みを、「エンジン」として温存する。 ただ、それだけではループ化するほかないので、「事後的な分析労働」という時間的構造を仕込み、自分の実存と一体化して、社会化の営みとする。
動態的な分析労働の事後的な試行錯誤は、その過剰性において、私を駆動し続ける。



*1:兵役義務を終えたベトナム帰還兵が、日常生活に耐えられず、また戦地に戻ってしまった例が多数あるらしい。 ▼わたしは、震災直後の異常時に、元気に活動することができた。 ▼わたしは「終わりなき再帰性」の枠を、非日常の体験枠組みそのものと見ている。 ここから、「終わりなき分析」=「事後的な分析」という、享楽に満ちた労働に移行すること。