「時をかける少女」観てきました。*1

一人で「109シネマズHAT神戸」へ。 18時からの上映で、観客は7〜8人。
病んだ人間が登場せず、あまりにさわやかで、正直 救いがなかった。
帰り道、ひどく落ち込んでしまう。
僕は、自分に思春期心性が残っているのではないかと気になっているのだが、映画に登場する「2006年の高校生群像」は、僕の自意識がいくら抵抗してもどうしようもなく「もうずっと下の世代」で、それが単なる反発の対象ではなく、「できれば自分もこうでありたかった」姿だけに、「もうお前にはこんな時代は来ないんだよ」 「どんなに長生きしても、もう無理なんだ」 「あとは老いの時間を楽しむしかない」――そういう事実を突きつける、冷酷なイニシエーションになった。
僕は『耳をすませば [DVD]』と似た、「あり得ない青春」を描いた残酷さ*1を感じたんだけど、ネット上の声を見ると、ものすごく評判がいい・・・





*1:参照

「事実としての思考」と、自由連想

自分に生じている「事実としての思考」をなるだけ丁寧に言説化し、それをメタに検証する作業を共有してくれる人は本当に少ない。 ▼「べき論としての思考」か、素朴な心情吐露ばっかり・・・
これは、精神分析で言う「自由連想」の問題と、関係するだろうか?
自由連想は、「素朴な心情吐露をする」といった想像的(イマジネール)な自己確認とは、別種の作業であるはずだ。
【参照:「事後的な責任構造の枠組み」】