忘却と隠蔽

本田由紀id:yukihonda)氏による「ひきこもり」という語の運用を批判する指摘(ワタリ氏)が、その批判そのものにおいて、さらに誤りを重ねている

 もう最近では学校や会社に行っていても、「心が引きこもっている」と他人を非難したり、自己にレッテルを貼ったりするのに使われて、意味が拡散・希釈されている。なのに、人にマイナスのレッテルを貼る機能だけは、継続して使われている。これは、ニートと同じまやかしの語ではないのか?

ある語が差別的切断操作のツールとして利用可能かどうかということと、その語によってのみ扱い得る深刻な現実が存在することとは、分けて考えなければならない。【参照】。


以下、ワタリ氏による書き込みがあまりにも杜撰かつ典型的なので、逐一誤りを指摘してみる。


「プライバシーの無視だ」

 あるとき、NPO関連の集まりで、NHKのひきこもりサポートキャンペーンが話題になりました。そのとき、正社員・アルバイトを問わず、20代・30代の人たちの集まりでは、何かヘンだという意見が圧倒的でした。「個人のプライバシー無視ではないか」「ライフスタイルの多様性を圧迫しやしないか」といった意見がありました。

この人たちには、ひきこもりの状態像の深刻さがまったく理解できていない。 放置は、貧困層では事実上の「見殺し」を意味する。▼「プライバシー」「多様性」という言葉で、社会的に不可視の苦痛が隠蔽・忘却されてゆく*1。▼規範として「プライバシーを尊重すべきである」という問題*2と、「放置すればお金がなくなって見殺しになる」という問題とは、分けて考える必要がある。


「失業問題隠しになっている」

 電車の中で話した労働組合のアクティヴィストは、「失業問題隠しになっている」と言いました。

失業問題を施策の焦点にするのであれば、「ひきこもり」は確実に忘却される。 就労問題だけで扱いきれる事情ではない。


「ウソっぽい」

 あるフリースクール主催者は、電話で話したときに「ひきこもりとかニートとかいう言葉は、何かウソっぽい。作り物っぽい。そういう名前をもらうことでとりあえず本人は落ち着くのかもしれない。けれど、問題解決になっていない。」とおっしゃっていました。自分も、あやしいと思いました。

二重に誤っている。 「ひきこもり」という言葉を「ウソっぽい」と表現するのは、「ちょっと努力すればすぐにでも社会参加できる」という甘い認識だからではないか。 にもかかわらず「問題解決」とはどういうことか。


「意味や意図が分かりにくい」

 ちょっと今手元に本がないのですが、ジャーナリストの塩蔵裕*3さんは、斉藤環さんの「社会的引きこもり」は、当初より医学会では「意味や意図が分かりにくい」等の批判があったことや、

「意味や意図が分かりにくい」というのは、この問題が既存の解釈枠に乗りにくいせいでもある。 そもそも多くの精神科医は、当初「ひきこもり」という状態像を理解できず、相談に訪れた引きこもり当事者を「面接室で説教する」等の失態を繰り返している。


「支援ぬきに脱出した例が複数ある」

 自助グループのリーダーが「(斉藤環さんの主張とは逆に)医療的支援ぬきにひきこもりから脱出した例が複数ある」と言っているのを紹介されています。

私自身が、医療的支援を含め、ひきこもりへの社会的支援抜きに「脱出した例」に相当するが*4、そのことで、「特例中の特例」という扱いを受ける。▼「ひきこもり」という語が失われれば、医療的支援にとどまらぬ社会的なインフラが動くための問題枠自体が失われる。「複数ある」というが、いったい何例あるのか。何十万人も存在する当事者のごくごく一部が「支援なしに脱出した」として、それで「社会的な支援態勢は必要ない」と言えるのか。特例中の特例をスタンダードであるかのように語れば、残りのすべては見殺しになる。▼「ひきこもりは、放置すれば必ず社会復帰する」という主張は、実態を無視した無責任な憶測にすぎない。現実には、長期化すればするほど社会復帰は難しくなる。*5

  • 【確認】
    • ワタリ氏が、「差別的な切断操作はいけない」という問題意識をお持ちであることは明らかで、その点については私も支持したい。 しかし、「ひきこもり」という語そのものを失えば、ただでさえ不可視の苦しみがますます隠蔽され、忘却されてしまう。 ▼それに比べれば、「ニート」って言うな! (光文社新書)と言いつつも「ひきこもり」という語を維持し、「異なる対応が必要」と書いてくれた本田由紀氏のほうが、はるかに実態に即している。




*1:「忘却されても構わない」という議論は、別枠で可能だろう。

*2:「公私の再定義」は、「ひきこもり」に関連するきわめて重要なトピック。これについてはあらためて検討する。▼こちらの議論については、私は上野千鶴子氏よりid:macska氏を支持する。

*3:「塩蔵裕」ではなく「塩倉裕」。

*4:私が苦しんでいた90年代には、わずかにあった民間支援団体の情報もなく、厚生労働省ガイドラインもなく(現在では精神保健福祉センター等が対応)、精神科やカウンセラーに相談に行く以外の社会的インフラがなかった。私はそれも利用していない。【後年、ひきこもりそのものとは別の苦しみで精神科を受診した。】

*5:しつこいように繰り返すが、規範としては「ひきこもっていても構わない」し、暴力的な社会参加の強要は許されるべきではない。 支援を選択しない自由はあくまで保持されるべきだし「支援を拒否して死んでゆく」という自由さえ認められるべきだろう。▼ひきこもりについては、「規範上は容認すべきである」ということと、「金銭的な危機が迫っている」こととを、徹底して峻別して論じなければならない【参照】。

「名付け」再考

上記書き込みを行なった「ワタリ」氏は、みずからのblogに「フリーターが語る」と冠しているが、「名付け」ということにこだわるなら、これも再検討の余地があるかもしれない。【そもそも「フリーター」という言葉も、「ひきこもり」と同じく蔑称として機能し得る。】 ▼以下、『EU労働法政策雑記帳』(濱口桂一郎氏)の「パートって言うな*1より。

 思うに、パートとかフリーターという言葉を用いて論ずること自体が既に社会問題として重要な問題でないというコノテーションを有してしまっているのではないか。そんなことを眉を逆立てて叫んでいること自体がどうかしているんじゃないかという意味空間に陥っているんじゃないか。低賃金非正規労働者の問題としてきちんと論ずる枠組みが、まずは言葉のレベルで必要なのではないか。

私は「ひきこもり」という単語を、深刻な現実を忘れないために必要だと言ったのだが、濱口氏は逆に、「パート」「フリーター」と名付けることが「問題を軽視させる」と指摘している。



井出草平(id:iDES)氏による解説

本田氏のblogコメント欄より。

「社会的ひきこもり」(Social withdrawal)とは、精神障害の診断マニュアルDSMに含まれる言葉ではありますが、統合失調症の一症状という理解は誤りです。DSMでは「社会的ひきこもり」はさまざまな精神障害に見られる症状として取り扱われていますので、例えばPTSDなどの項にもSocial withdrawalは症状として登場しています。また「ひきこもり」は斎藤環によって翻訳・輸入されたものだという理解も誤りです。斎藤環が『社会的ひきこもり』を著したのは1998年。この本の中でDSMに含まれる語を翻訳、使用するということが述べられています。しかし、1980年に既に「ひきこもり」という言葉は活字化されており、90年代初めには、厚生省(当時)によって「不登校・ひきこもり対策事業」というものが策定されています斎藤環が翻訳・輸入するかなり以前から、この言葉は使用され、実態を伴った現象として認識されていたと言えます。また「ひきこもり」の概念が実態を伴っていないという指摘をなされている方がおられますが、これは完全な誤りです。「ニート」と「ひきこもり」という言葉は誤用されることが多いという事では共通していますが、実態を伴っているかという点において異なっていると思います。「ひきこもり」は統計上の概念操作で生まれたものではなく、実態から問題化されてきた問題であり、「ニート」とは全く異なった出自を持っています。また、治療・支援の面でも、厚生労働省によってひきこもりガイドラインが正式に策定されていますし、近年では全国規模で体勢が格段に整備されてきています。既に専門知が確立された状況ですので、一般の人が「ひきこもり」という言葉をいかに使おうが、治療・支援の場への影響がさほどあるようには思えません。「ひきこもり」という言葉に功罪はありましょうが、隠蔽されてきた多くの当事者がこの言葉が生まれたことによって可視化され、救われてきたことは何よりも価値がある事ではないかと思います。

簡にして要を得たきわめて的確な整理。*1
驚いたのは、「初出は1980年」というところ。 原本は持っていないが、手持ちの雑誌論文で確認したところ、次のような記述を見つけた*2

 日本でひきこもりという言葉は、一九八〇年に岡堂哲雄の「ひきこもり現象と家族心理」(こころと社会23・3 日本精神衛生会)によって初めて用いられた経緯がある。




*1:「一般の人が引きこもりという言葉をいかに使うか」については、たいへん入り組んだ問題であるため、稿を改めたい。

*2:現代のエスプリ (No.403) (現代のエスプリ no. 403)』、武藤清栄「ひきこもり概念の変遷とその心理」、p.36

「Social withdrawalについての幾つかの考察」(井出氏)

「ひきこもり」概念の歴史と概要について整理されている。 重要なポイントを確認しておきたい。

 DSMの中には「社会的ひきこもり」の項目はない

私自身が混乱していた。

 「ひきこもり」という言葉は斎藤環DSM翻訳語として採用する以前に広く一般に知れ渡っていた。またひきこもり現象の認知も進んでいた。

行政の取り組みとしては、1991年の「ひきこもり・不登校児童福祉対策モデル事業」(厚生省・当時)が最初か。