承前

貴戸理恵氏と東京シューレのやり取りをめぐっては、≪当事者≫というポジションが独特の役割を果たしており、これがお互いの主張する倫理性の参照項になっている。この問題は非常に広く複雑な射程を持ち、慎重な論考を必要とするが、ひとまずここでは、今回の案件に関連するいくつかの指摘のみを試みる。
【追記:当ブログでは、「現役の引きこもり」を≪当事者≫と呼び、「かつてそういう経験がある人」を≪経験者≫と呼んで分ける努力をしているが、貴戸氏の著作においては、「不登校経験を持つ者」がすべて≪当事者≫と呼ばれている。また貴戸氏の師事する上野千鶴子氏が共著者である『当事者主権 (岩波新書 新赤版 (860))』では、「ニーズを持ったとき、人はだれでも当事者になる」と定義されており(p.2)、「ニーズの有無」が鍵とされている。▼以下では、≪当事者≫と呼ばれるポジションが持つ機能そのものを考察している。】



「ニーズの主体」と「主張の主体」

双方の主張のすれ違いは、≪ニーズの主体≫としての当事者と、≪主張の主体≫としての当事者の混同に基づく。 ▼東京シューレ奥地圭子氏)は、不登校擁護の運動において「自分たちこそが当事者益を代弁している」という自負において語り、それゆえシューレに批判的な者を「不登校当事者の敵」と見なす。いっぽう貴戸氏は、不登校当事者の一人である自分自身の「必要=ニーズ」に応じて、あるいはフィールドワークから読み取れた「当事者たちの声=ニーズ」に応じて*1、みずからの主張を形成している。それぞれが、「当事者のニーズ」にこだわっている。 ▼『不登校は終わらない』に登場する当事者の一人である「Nさん」は、『不登校、選んだわけじゃないんだぜ! (よりみちパン!セ)』を参照すれば、貴戸理恵氏本人であることが明らかである。ここでは、≪ニーズの主体≫としての貴戸氏と、≪主張の主体(論文執筆者)≫としての貴戸氏が、手続き上ショートしている。「当事者の声」を取材すべき貴戸氏が、「自分自身」を取材対象の一つにし、主張を形成している。これは、既存の論文作法上疑問視されると思われるが、逆に言えば、「当事者による当事者研究」の一環として、「自分の経験を動因とし、自分自身を分析の対象にする」*2という作業の可能性にあえて打って出たものであり、≪当事者学≫という立場からの「調査倫理」上の挑戦とも考えられる。貴戸氏ご本人にこの点を確認したところ、「Nさん」が貴戸氏ご本人であるかどうかについての明言は避け、「この点については、これから時間をかけて自分で取り組んでゆきたい」とのこと。*3 ▼貴戸理恵氏は、東京シューレにも奥地圭子氏にも取材を行なっておらず、出版前には取材対象者全員から出版許可を取っている。東京シューレは、自分が取材対象ではないのに、取材対象者たちの発言内容およびそれへの解釈について検閲権を主張しているのであり、これについて貴戸氏に非があるとは思えない。貴戸氏の論文の「調査倫理」において真に問題とすべきなのは、「東京シューレとの関係」ではなく、むしろ「自分自身との関係」ではないだろうか。逆に言えば、期待されるべき可能性の焦点もそこにあるように思われる*4



*1:そこには、「調査現場に立ち現れない者」への想像力もあった(p.106,261など)。 このことは、「脱落・離脱」を本義とする不登校の研究においては、重要なセンスだと思われる。(これは当然、「フリースクールからすら脱落してしまう人たち」の問題であり、「ひきこもり」の話に通じている。)

*2:私はここに、精神分析の歴史や方法論を思い出さずにはいられない。

*3:明言を避けたことからも「Nさん」が貴戸氏であることは間違いないと思われるが、以下をお読みいただければお分かりのとおり、報告者である私(上山)自身は、貴戸氏のこの試みを積極的・肯定的に検証したいと思っている。これは当然、「ひきこもり経験」を出発点とした私自身の試みの再検証でもある。▼ただ、私はこの問題について、既存の学説の蓄積を何も知らない。ぜひ、識者諸氏の教えを乞いたい。

*4:不登校は終わらない』が、「当事者による研究ゆえの情報クオリティ」に成功しているか否か自身は、もちろんまた別個に検証されるべき事柄である。今回の貴戸氏の試みが失敗していたとしても、そのこと自体は、≪当事者学≫の可能性を検証する必要自体を否定するものではない。貴戸氏は単に一挑戦例にすぎない。

運動体のイデオロギーと、「当事者の声」

「当事者の語り」のみを取材対象とする貴戸氏においても、「見解」に「当事者の手記」を掲載する東京シューレにおいても、≪当事者の声≫は、不可侵の尊重対象とみなされている。▼『不登校は終わらない』は、貴戸氏自身の不登校経験の記憶を出発点としており、そのフィールドワークは、「他の当事者たちの声」を収集している。貴戸氏が「東京シューレ」や「奥地圭子」に取材しなかったのは、単なる忘却ではなく、「当事者」にターゲットを絞ったゆえの原理的選択といえる。シューレからの修正要求に対する修正基準と修正結果(重版時)を見る限り、貴戸氏は奥地圭子氏について、「不登校当事者の発言を修正する検閲権限はない」と考えている。▼『不登校は終わらない』が、作品創造の起動因においてのみならず、主張内容においても≪当事者たちのニーズ≫を抱えており、それが「暗い不登校」や「ひきこもり」の指摘につながっているとすれば*1東京シューレは、貴戸氏の解釈を検閲する振る舞い*2によって、みずからのイデオロギーからこぼれ落ちる≪当事者の声≫を消しにかかっていることになる。その際にシューレが持ち出す正当化の論理は、あくまで「当事者の利益」であり、そのために2名の手記(「当事者の声」)が援用された。いわば、「ある当事者の声を消すために、別の当事者の声を利用する」構図がある。



*1:報告者である私自身はそのように考えている。

*2:「反論」はぜひとも肯定されるべきなのだが、ここではシューレの行なった「260箇所以上の修正要求」を「検閲する振る舞い」と表現した。しつこいようだが、貴戸氏の解釈の成否そのものについては、まったく別の検証課題として残っている。

《存在》 と 《言葉》

再度確認したいのは、これは「ニーズの主体」と「主張の主体」を混同する問題ということ*1。シューレの振る舞いは、「《主張の主体》としての当事者の声を消すために、《ニーズの主体》としての当事者を持ち出す」という構図を持つ。あるいはこう言い換えてもいい。「《言葉》を打ち消すために、《存在》としての当事者を持ち出した」。ここでは「当事者の言葉」は、対等な対話相手としての《言葉》ではなく、言葉を黙らせる《存在》として機能してしまっている。当事者発言はあくまで《存在》であって、ということは、対等な関係を求めて当事者が反論を試みれば*2、その解釈は「正しい解釈」の保持者としてのシューレに批判されることになる。(「理論」と「当事者の言葉」は別の水準にあって、後者は前者に奉仕する形でしか存在を許されない。) 「当事者の体験」は、解釈権をもつ東京シューレに牛耳られてしまう*3
今回のケースでは、貴戸氏が「東大大学院生」ということで、貴戸氏の言葉には《存在》としての価値が与えられなかった。しかし貴戸氏自身は、みずからに巣食う「不登校の記憶」を、あくまで《存在》のレベルで評価しているように思われる。



*1:これは、「客観的なポジション」から峻別することのできない解消不可能のジレンマであり(しかし峻別の努力は常に繰り返されるべきだ)、だから論争が続いてゆく・・・。重要かつやりきれないのは、論争に関わっている全員が、「不登校当事者にとっての利益」を目指していることだ。

*2:貴戸氏の行為はそれにあたる

*3:不登校擁護の運動を進めるためには、そのような暴力性にも果たすべき役割があったことがじゅうぶん想像できる。

「当事者」の主張責任

「見解」中の2名の手記は、「取材手続きへの抗議」ではなく、「貴戸氏の解釈への反論」なのだから、お互いに対等な《言葉》のレベルにある。ところがこの2名が「当事者」であることによって、その主張は《存在》、つまり≪反論してはならない絶対的声明≫とされ、シューレの「見解」(《言葉》)を補強している。ここで≪当事者の声≫という存在は、「解釈レベルの反論」を、「手続きレベルの抗議」にすり替えるマジック・ポジションとして援用されている*1。「見解」に手記を寄せた2名が、こうした事情を知った上で寄稿に同意したのであれば、この2名は「当事者」というみずからのポジション(存在)を、シューレに政治的に利用させることを政治的に決断したことになる。ここには当然、主張責任が発生する。東京シューレは、この2人をこうした責任の場に連れ出した。
同様にして貴戸理恵氏は、「ニーズの主体」として、みずからの声を「主張の主体」としての自分自身(論文執筆者)に利用させている。これは、「当事者として発言する」という社会行為を試みる者すべてに問われる責任構造である。



*1:「取材対象となった当事者の発言を無条件に尊重すべきである」という東京シューレの態度は、実は常野雄次郎氏の存在によって、すでに破綻している。

「弱者の声」と、抗議倫理

東京シューレ「見解」に掲載された「手記」を読む限り、彼ら2名は、事前に貴戸氏から出版原稿の全体を渡されながら、読まないままに出版にGOサインを出しており、「解釈」に取り組むことへの極端な脆弱性が見て取れる。またこの2名は現在、「シューレ大学」に籍を置いて不登校の研究をしているのだが、支援団体内部の力関係を考えれば、被支援者が団体内部の見解に抵抗するのは困難であることが容易に想像される。
ここでは、「判断主体の独立性」と、現実的な力関係が問われている。
シューレは、みずからの団体内部の「当事者」を、あのような政治的見解表明の場に登場させてよかったのだろうか。しかもその抗議行動は、貴戸氏が手続き上の対処を終えた後にまで継続されている。
「調査倫理」と同様に、「抗議倫理」が問われるべきではないか。



既存解釈と、そこからの脱落

「力関係の差」については、当然ながら「アカデミズム」の強力な解釈権が問題となる。
運動体としての東京シューレは、不登校に否定的なアカデミズム(既存解釈権)と戦い、弱者たる不登校当事者を守ってきた。「フリースクールにすら救済されない体験や存在」に拘泥する貴戸氏は、いわばそのシューレの素振りを繰り返しているのだが、今回は東京シューレ自身が、「脱落者を糾弾する解釈権力」として振る舞っているように見える。
不登校を擁護したからといって、既存の学校教育という社会機能自体が否定されるわけではないように、フリースクールからの脱落者を擁護しても、フリースクールや「不登校擁護運動」の社会機能自体が否定されるわけではない。
既存の枠組みから離脱するあり方を規範として肯定する素振りと、その「離脱肯定」からすら脱落してしまう存在への社会的処遇を検討する作業とは、同時に成立すべきである。離脱を肯定する陣営と、復帰を模索する陣営が対立してしまうこれまでの文脈は、不毛すぎる*1。規範としての「離脱肯定」と、具体的救済努力としての「再復帰模索」は、同時に追求されてしかるべきものだ



*1:奥地圭子vs斎藤環」、「高岡健vs斎藤環」といった構図も、これで話が済んでしまう・・・・

「前衛党」と「反革命」?

東京シューレによる貴戸批判は、「見解」不登校当事者の手記が登場していることからも分かるとおり、「当事者益」を根拠としている。しかし奇妙なことに、貴戸理恵氏自身が不登校経験の当事者であるから、シューレは、「不登校当事者の一人を徹底的に追い詰め、糾弾している」ことになる。また、「見解」に登場した2名と同じく貴戸氏の取材対象であり、ブログ上や共著内で貴戸氏の発言を支持している常野雄次郎id:toled)氏については、シューレや奥地圭子氏はいまだ言及していない*1。つまり東京シューレにとっては、たとえ相手が「当事者」であっても、当事者全体の利益を代表しているとされるシューレに敵対している時点で、「当事者の敵」であると見なされることになる。▼ここで、「労働者の利益を代表する前衛党」と、その党による労働者への「“自己批判”の強要」*2という歴史を思い出さずにいることは難しい。≪当事者≫という理念的参照項は、運動遂行と糾弾の構図において、かつての≪労働者(プロレタリア)≫という理念的ポジションに重なっている。
貴戸氏を攻撃する多くの人々(当事者を含む)は、貴戸氏が「東大院生である」という事実に執拗に絡む。「不登校こそ正しい」というイデオロギー下では、既存の教育制度に、しかもその牙城と目される「東京大学」に首尾よく帰属している時点で、「裏切り者」扱いされる。▼やはりここでも、「資本主義の犬」という古典的左翼用語を思い出す。貴戸氏は、東京シューレやそれに同意する人たちによって、事実上「反革命」扱いされている。しかしもちろん、貴戸氏が掬い上げている「当事者益」は、貴戸氏ひとりのものではない。*3



*1:貴戸氏が「相手にされ」、常野氏がそうならないのは、貴戸氏がアカデミズム(の牙城と目される東大)にいるからだろう。同じことを「弱い当事者」が主張しても、それは単に黙殺される。▼貴戸氏の主張に意義を感じる私のような者にとっては、彼女がアカデミズム(東大)にいるのはたいへん喜ばしいことだ。(くだらないことを主張されたらたまらないが。)

*2:最悪形は「粛清」

*3:ここで思い出すのは「内ゲバ」だ。ああ・・・

解釈権の拮抗

今回の案件においては、解釈権に関する3つの権威が絡み合い、拮抗している。その3つとは、

《運動体》  《アカデミズム》  《当事者》

である。とりわけ今回は「不登校」、すなわち既存の教育制度からの離脱・脱落がテーマゆえに、その論争は「既存解釈が掬えないものを黙殺・抑圧する暴力」をめぐって戦われている。

    • 東京シューレは、弱者たる不登校当事者を擁護し、その利益を代弁すべく発言する。シューレから見れば、貴戸理恵氏は「アカデミック・サークルの慣習で当事者の利益を侵害する者」であり、そこで抗議を行なうシューレ自身は、《運動体》として権威付けられる。
    • 貴戸理恵氏は、「自分の必要」があって今回の論文を書いたという。また調査者としての彼女は、支援者や親たちではなく、あくまで「当事者たちの声」そのものに照準を合わせ、それが結果的に「奥地圭子氏には取材も許可も取らない」出版に結びついている。つまり貴戸氏は、「不登校当事者たち」のニーズと利害にどこまでも忠実になろうとしたのであり*1、「アカデミズム」という舞台や手続きは、その当事者益に「奉仕するもの」としか考えられていない*2
    • 貴戸氏にあっては、みずからの不登校経験への「こだわり」に執筆動機の核心があるのだが、東京シューレ側(奥地圭子氏およびその賛同者たち)には、そのモチベーション(言説ではなく存在)の核がまったく見えておらず、貴戸氏の論文が「アカデミズム」あるいは「不登校を否定する既存社会の言説」のみに基づくように見えている。
    • 不登校当事者」としての貴戸理恵氏は、《運動体》としての東京シューレの成果から恩恵をこうむっていることを、『不登校は終わらない』、シューレへの「コメント」、私からの取材において、再三強調している。

不幸なすれ違いとしか思えない。
3つの解釈権威は、対立すべきものではなく、協力すべきものだと思うのだが・・・・。



*1:繰り返すが、その「当事者たちのニーズ」に貴戸氏本人のニーズがどの程度、どのようなメカニズムで繰り込まれたかが、今後の重要な検討課題になる。▼当然ながら、「当事者」各人が同定する主観的ニーズは、バラバラであり得る。

*2:貴戸氏は、「理論“そのもの”に興味はなく、自分の問題に関係することしか勉強する気にならない」という。