≪敵≫のわからなさ

「革命」って、今後は「技術改革」以外ないような。
個人として曲がりなりにうまくいってるなら、うかつに反抗的な態度をとるより、管理され切ったほうがキモチイイとか…。 僕は「管理される」ことから脱落しているから、必死に考えているだけなのか。(途方もないシニシズム…)


以下は、三ツ野陽介氏の引用した 『<帝国>』(ハート+ネグリ)からの孫引き(赤字・太字などの強調は上山)。

今日の政治哲学が最初に提起すべき問いは、抵抗や叛乱がありうるか否か、さらにいえば、なぜ抵抗や叛乱がありうるのかですらなく、いかにして叛乱すべき敵を定めるのか、というものである。 じっさい敵を同定できないことには、抵抗への意志をそうした逆説的円環(執拗に闘った結果、みずからすすんで隷属してしまうという円環――引用者注*1のなかに閉じ込めてしまうことに往々にしてつながるのだ
とはいえ、搾取がもはや特定の場所を持たない傾向にあること、そしてまた、あまりに深くて複雑な権力のシステムの中に私たちが浸っているために、特定の差異ないしは尺度を規定することがもはやできなくなっているということ、これらの条件を考慮するならば、敵の同定はとるにたらない仕事などではまったくないのである
私たちは日々、搾取・疎外・指令といった敵のせいで苦しんでいるけれども、抑圧を産み出すものをどこに位置づけるべきなのかわからないのである



驚いたのは、滝本竜彦氏が「敵のわかりにくさ」を主題として小説を書いていた、という指摘。 以下は、滝本氏の小説からの引用だろうか*2(赤字強調は上山)。

悪い組織と戦いたい。 悪者と戦いたい。 もしも戦争などが勃発したならば、俺たちは速攻で自衛隊などに入り、神風特攻をしていただろう。 きっとそれは、意味のある生き様で、格好いい死に様である。 もしもこの世に悪者がいてくれたならば、俺たちは戦った。 拳を振り上げて戦った。 そうに違いない。
しかし悪者はどこにもいない。 世の中はいろいろと複雑で、目に見えるような悪者など、存在しない。 それが辛く、そして苦しい。



以前から書いているとおり、僕はどうやらフィクションになじむ能力が低いらしく、『NHKにようこそ!ISBN:4048733397 も頑張って通読したのだが、恐ろしく苦痛で…。 でも、たしかにそんなくだりがあったと記憶する*3


敵があり得るとしても、それはつねに流動的というか…。 何か論点が明確化したと思っても、いろいろ気配りして考えてるうちに、すぐにぼやけてしまう*4。 そもそも、たたかう努力の結果得られるはずのものに、魅力がない。
あるいは、あまりに無力。 「取り組んだところでどうしようもない」と思わされてしまう。







*1:この「引用者」は、三ツ野陽介氏です。

*2:NHKにようこそ!』かな?

*3:どんな筋だったかはほとんど覚えていない…スミマセン。

*4:「相対敵」はあっても「絶対敵」はない、というような。

怒りと愛

そうは言っても、僕の努力の最大の原動力は、≪怒り≫だったはず…。
やっかいなのは、≪怒り≫というのは、それ自体、自己破壊衝動にもなり得る、ということ。 怒りがあまりに強いにもかかわらず、「敵が見えない」「無力すぎる」としたら、自分を殺すしかない*1


くり返し取り上げているドストエフスキーのセリフ、「地獄とは、≪もはや愛せない≫ということだ」。 → 「怒り」だけでは、何かまずいのではないか。
ああ、またしても、愛情生活の話をしなければならないのか?…


「孤軍奮闘」は、まずいのではないか。 孤立して、「自分だけのために」というのは。
大切な人がいて、「その人のために」努力する ―― そういう要因が、必要なんではないか。 「守ってあげたい」とか。
→ 愛されることがなく、「守ってあげたい」という願望が相手の迷惑にしかならない人は?…。


怒ることにも、愛することにもインポテンツ…







*1:怒りがひどすぎて自殺する人はいくらでもいる…。