「相手にされる議論」を作るのは、本当に難しい。
「差別」と「権利」の峻別
僕が「ひきこもりの安楽死」という話を出したことをめぐり、「上山はひきこもりを差別的に排除(抹殺)しようとしている」という危惧も(ごくわずかですが)出ているようです*1。 大事な論点を含むと思うので、すこしだけ。
以前僕は、「ひきこもりは≪病気≫か≪葛藤≫か」というエントリーを行い、ものすごい反響がありました。 今回の「安楽死」もそこに連なる話ですが、どうもこのあたりに「ひきこもりをめぐる核心的論点」があるようです。
あらかじめ書いてしまいますが、ここでは ≪差別(排除)≫ と ≪権利≫ が踵を接しています。
「病気と見なす」 「遺伝子レベルでの有意の差異」 「安楽死という選択肢」 ――これらが≪差別≫という文脈で取り上げられるとしたら最悪です。 「ひきこもりは抹殺されるべきだ」と言っているわけですから。
しかし、≪権利≫という文脈で眺めてみてください。 ひきこもりが「病気」であり、「遺伝子レベルの差異」を持つことが確認されれば、社会保障への道はきわめて大きく開かれることになります。 さらに、客観的な事情に基づいて「激痛を伴う絶望」が確認されれば、「安楽死」という「権利」さえ発生するかもしれない*2。
これまでにも何度か書きましたが*3、ひきこもりは、定義上「病気」ではなく*4、「遺伝子レベルでの差異」もない*5ために、本人自身は「致命的な無能力」を抱えているにもかかわらず、社会的には「働く能力がある」と見なされる。 → 現実的には「不可抗力の無能力」であるにもかかわらず、その不可抗力性を客観的に証明する方法がないために、社会的には「やればできる」としか見てもらえない。 すなわち、「働かないのは自己責任」=「死んでも自業自得」という話になる。
おわかりでしょうか。 「ひきこもっている人間には有意の器質的差異*6はない」という言い分は、「生物学的差別」には抵抗していても、「社会的な侮辱と排除」には加担する可能性があるのです。
「みんなが同じ条件を持ち、自分の自由意志でどんな結果も導き出せるのだから、ひきこもるのも自由意志の結果」*7――このように考えれば、ひきこもりへの社会保障は絶対に許されないことになります*8。 そもそも「引きこもっている人間が社会復帰するための支援」は、すべて(本人の自由意志を無視した)「引き出し屋」ということになる(本人自身が「助けてくれ」と言っている状況でも、「強引な引き出し屋」と言われるのは妙な話です)。
深刻な引きこもりの状況をわずかでも知っていれば、「自分の意思でその状況を選んでいる」(いつでもその状況を出られる)とは、口が裂けても言えないはずですが*9、某「ひきこもれ!」の思想家といい、現場を知らない人ほど、「ひきこもり」を自分に好都合に勝手に理想化するようです。
日本の現状では、ひきこもることは(特に就労との関連において)社会的に致命的なマイナス評価を生みます。 そういう白眼視をなくすためには、「ひきこもる権利」*10を主張する必要がありますが、それは「苦痛緩和」への支援とセットになる必要がある。 つまり、「ひきこもりは悪くない」を主張していただくのはいいのですが、それは「放っておいたら(本人の意に反して)死んでしまうかもしれない」、そういう「激痛を伴う不可抗力の状態像」の話だということも忘れてほしくないわけです。
ベーシック・インカムなど、「働かないでも生きていられる」という選択肢が社会的に用意されるのは、アマルティア・セン的な意味で「豊か」だと思います。 僕としてはその可能性も見据えつつ、やはり現状では「病気でもないのに働かない(と見なされる)奴は死ぬしかない」のですから、「ひきこもりは働ける」という主張は安易にしてほしくない。 本当に「不可抗力の無能力」であるなら、それ相応に「権利」を云々するべきだし、その権利主張に現実味がないなら、「絶望的な状態像」を解消するための方途(政策・訓練)を、模索する必要があります。
「本人の努力によってはどうしようもない絶望的な状態である」ことを最大限受け止めつつ、その状況を緩和・解消する努力も忘れないこと。
「絶望」を受け止めてくれない人は、苦痛緩和のためには何もしてくれません…。
*1:僕自身当事者(経験者)だし、「死にたいのは自分自身だ」と言っているのですから、冷静に考えれば「何をか言わんや」なのですが。
*2:しつこいようですが、判例を見るかぎり、「ひきこもり」に「安楽死」という話題を持ち出すのは、「激痛と絶望」を理解してもらうための論点でしかあり得ません。 ただ、経済的破綻や精神的苦痛について、救済の具体案を提示もせずに「命を大事にせよ」というのは、きわめて欺瞞的だと思います。 拷問のような生を放置しつつ、「その激痛を生き続けろ」と言ってるわけですから。 長期的には、「絶望の社会的実存」と「自己決定」をめぐる重要な話題であると思うのですが(「一人で勝手に死ね」は、絶望を「悲惨の中に放置」します)。
*5:「社会的ひきこもりの原因遺伝子」というテーゼは、「社会的」なものを「遺伝的」に説明する、という形容矛盾です。 「極度に過敏な感受性を持ちやすい遺伝特質」などはあり得るのかもしれませんが、それを特定しても「差別のため」ではないでしょう(たとえば「ガンになりやすい遺伝子」があるとして、その研究は「差別」のためではなく、予防や権利整備のためのはず)。 一定の特質を持って生まれているとしても、それが「社会的ひきこもり」という状態像に結実するには、相応の社会的環境が要るわけです。 議論を「遺伝子」に特定したがる人間は、肯定的であれ、否定的であれ、この「社会的」要因を無視しています。
*6:生物学的に特定できる差異
*7:思想的には、「リバタリアニズム」と呼ばれるのでしょうか。
*8:現実的には、≪不可抗力≫なのか≪意思的選択≫なのかの線引きは、客観的には不可能でしょうから、「ひきこもり」という状態像そのものへの社会保障の設定は、不可能ではないでしょうか。 あり得るとすれば、統合失調症や鬱病など、「精神障害」の診断が必要であり、そうするとそれはもはや「社会的ひきこもりへの社会保障」の問題ではなくて、「精神障害への社会保障」(障害年金等)の問題です。
*9:防衛反応としての不可避的な状態選択、しかもその選択が「死に至る固執」である場合、それを「自由意志的選択の結果」と言えるかどうか――という問題は残る、と言うべきでしょうか。
*10:閉じこもること自体は犯罪ではないのだから、ひきこもりという状態像そのものは糾弾の対象であってはならないはずです。 ひきこもりというのは、糾弾されるまでもなく苦痛に満ちているし、糾弾されるがゆえに、社会復帰が不可能になっている面があります(「いったん脱落したら、二度と復帰は許さない」という日本の特質でしょうか)。 真に責められるべきは、「ひきこもりは悪いことだ」と言っているその目線そのものでしょう。 その目線が解消されるだけで、苦痛はかなり緩和されるし、復帰への道のりもつきやすくなるでしょう。
「特異点」?
id:essa さんが、「社会の中の極小値=特異点」と見る比喩について、詳しく書いてくださってます*1。
「特異点」という言葉は、僕も数学や物理学の一般向け解説書で見かけて以来、ずっと気になっているのですが、ソーカルの批判などもあるし、この理系概念をどう使えばいいか、あるいは使うべきでないのか、考えあぐねているところです。 ひとまず、「議論の刺激になればいい」というぐらいに受け止めて、次のようなメモを書いてみることにします(essa さんへの批判やレスポンスと言うより、「特異点」という比喩の射程を確かめたい、という感じです)。
- ひきこもり=特異点=「社会の構造上、不可避的に生じる極小値」と考えると、「社会からはひきこもりはなくせない」となってしまうが、ひきこもり状態を身に引き受けた個人としては、自分が「不可視の暗部」ではなくなるよう、努力せざるを得ない。
- ひきこもりは、「居場所がない」(放っておけば潰されて消えるしかない)という問題。 しかしブラックホールは(たとえば銀河系中心の巨大ブラックホールのように)それ自体が時空の構造形成に確固たるポジションを持っているし、数学の特異点は「必然的帰結」。
- 「ひきこもりという特異点」が「法則の成り立たない点」だとして、その点(point)はみずからの単独性(singularity)を放棄して、「法則に従う周囲」に同調すべきでしょうか。
- 「法則に従わない」を、「制度の規範に従わない」と見れば、「特異点=脱社会的存在」ということになります。
- 「周囲に順応するため、特異性を放棄する」には、「洗脳」という要因もあって難しい。 「自分へのこだわりなど捨てて、無心になって順応せよ」は、しごく真っ当な言い分であると同時に、危険なメッセージにもなり得る。
- 特異性は、「自意識の問題」だろうか、「構造的配置」だろうか。
- 物理や数学の「特異点」は「人間には改変不可能の法則(論理)」による帰結ですが、社会的に発生する最弱点としてのひきこもりは、どこまで「不可避的に生じる」と言い得るか。
- 「最小値が存在する」ことは不可避でも、「排除されてはいない」を目指せないかどうか。
なんというか、破綻スレスレの(いや破綻してる?)きわどい記述ばかりですが、ちょっとは刺激になり得るでしょうか…。
こうやって書いてみて思ったのですが、やはり「理系概念の比喩的転用」は、「話を面白くする」(刺激になる、エンターテインメントになる、啓蒙的効果を持つ)という以上の意味はないような…。
理系概念には「不可避的運命」というニュアンスがつきまとうので、政治的な緊張関係をともなう話にそれを用いることには、やはり慎重であるべきかもしれません。
ただ、最近は「経済物理学」という言葉も登場しているそうで…。 信頼すべき可能性があると言えるんでしょうか。
単独性を僭称する特殊性?
宮台真司×奥平康平『憲法対論』ISBN:4582851649 を読む努力を続けていますが*1、どうもやはり「日本」について、「単独性」(代替不可能)を言うかどうか、がネックのように思えます。
天皇を、「法則の崩壊する」ポジション(特異点)として要請するにしても、それは形式的な要請(特殊性)であって、「代替不可能の単独性」ではないのではないか。つまりジジェク的に言えば、それは「世界中の国が採用」すべきものであって、「日本」だけのものではないのでは。
宮台氏は憲法の話をするときには「他の国にも通用する議論」をしているようなのに、「天皇」「日本」の「文化的」側面を問題にするときには、「代替不可能の単独性」を主張しているように見えて、その混乱が理解をひどくややこしくしています。
「憲法的枠組みは死守すべきだ」という話と、「日本を文化防衛すべきだ」という話とは、分けるべきではないでしょうか。
*1:なんとまだ第二章を読み終われない(汗)
「居着き」 → 「非中枢的な身体」
27日のコメント欄から、id:mommoo さんの「居着き」を思い出し、こちらの論文を読んでみました。 ひきこもり当事者(経験者)の苦痛緩和および「有力化 empowerment」のヒントになるかもしれないので、以下、簡単に引用しながらメモ。
身体技法としての武道は、「武士道」や「忠君愛国」のような、ある歴史的状況に固有の社会的価値観との関連だけで理解できるものではない。
三島由紀夫との関連でこれは重要ではないか。
おのれの生命身体についての過度の気遣いが不安を昂進させ、結果的に運動能力を低下させ、生命身体の危険がいっそう高まる。 この悪循環が「居着き」の構造である。
「意識しすぎるがゆえに何もできなくなる」という要因は、ひきこもりにとって絶対無視できないと思う。
運動だけがあって反省のない身体、刺激の意味について省察する中枢を関与させないで反応する身体(「寸断された身体」「アナーキーな身体」)、これを私たちは以下では「非中枢的な身体」と呼びたいと思う。 (中略)
いずれも「私の外部」に運動の操作主を想像的に設定し、そこに運動の支点や起こりを移すことによって、私の本体を完全に力みの抜けた一種の「操り人形」状態に置くことを技術的な「仮説」としている。*1
「不自由な自意識」に苦しむ身としては、大きなヒントを感じる。 ただ、
敵を忘れ、私を忘れ、戦うことの意味を忘れたときに、戦う者は最強となる。 なぜなら、彼にはもはや「守るべき自我」も「破るべき敵」もないからだ。 その身体運用はあらゆる「居着き」を去った融通無碍、完全に予見不能の自在境に到達している。 しかし、その最強の身体は、もう戦うことに意味を見出すことができない。
と言われてしまうと、欺瞞(は大袈裟にしても危機)を感じざるを得ない。 「戦わなければ消え去るしかない」身の上としては、「戦う意味」が消えることはない。 本当に「自分が消え」ていいのなら、排除されたまま滅びてしまってもいいではないか。
少々強引かもしれないが、僕はここに「単独性の抹消」を読んだのだが…。
社会生活をよく「ゲーム」に喩えるが、「武道」の発想を取り入れたほうが有用ではないか。「命のかかった真剣勝負」というような意味で。
この件はまたぜひ立ち返って考えてみたい。
*1:強調は引用者。