2005-05-25から1日間の記事一覧

レポート(3)に続く

解釈権の拮抗

今回の案件においては、解釈権に関する3つの権威が絡み合い、拮抗している。その3つとは、 《運動体》 《アカデミズム》 《当事者》 である。とりわけ今回は「不登校」、すなわち既存の教育制度からの離脱・脱落がテーマゆえに、その論争は「既存解釈が掬…

「前衛党」と「反革命」?

東京シューレによる貴戸批判は、「見解」に不登校当事者の手記が登場していることからも分かるとおり、「当事者益」を根拠としている。しかし奇妙なことに、貴戸理恵氏自身が不登校経験の当事者であるから、シューレは、「不登校当事者の一人を徹底的に追い…

既存解釈と、そこからの脱落

「力関係の差」については、当然ながら「アカデミズム」の強力な解釈権が問題となる。 運動体としての東京シューレは、不登校に否定的なアカデミズム(既存解釈権)と戦い、弱者たる不登校当事者を守ってきた。「フリースクールにすら救済されない体験や存在…

「弱者の声」と、抗議倫理

東京シューレ「見解」に掲載された「手記」を読む限り、彼ら2名は、事前に貴戸氏から出版原稿の全体を渡されながら、読まないままに出版にGOサインを出しており、「解釈」に取り組むことへの極端な脆弱性が見て取れる。またこの2名は現在、「シューレ大学…

「当事者」の主張責任

「見解」中の2名の手記は、「取材手続きへの抗議」ではなく、「貴戸氏の解釈への反論」なのだから、お互いに対等な《言葉》のレベルにある。ところがこの2名が「当事者」であることによって、その主張は《存在》、つまり≪反論してはならない絶対的声明≫と…

《存在》 と 《言葉》

再度確認したいのは、これは「ニーズの主体」と「主張の主体」を混同する問題ということ*1。シューレの振る舞いは、「《主張の主体》としての当事者の声を消すために、《ニーズの主体》としての当事者を持ち出す」という構図を持つ。あるいはこう言い換えて…

運動体のイデオロギーと、「当事者の声」

「当事者の語り」のみを取材対象とする貴戸氏においても、「見解」に「当事者の手記」を掲載する東京シューレにおいても、≪当事者の声≫は、不可侵の尊重対象とみなされている。▼『不登校は終わらない』は、貴戸氏自身の不登校経験の記憶を出発点としており、…

「ニーズの主体」と「主張の主体」

双方の主張のすれ違いは、≪ニーズの主体≫としての当事者と、≪主張の主体≫としての当事者の混同に基づく。 ▼東京シューレ(奥地圭子氏)は、不登校擁護の運動において「自分たちこそが当事者益を代弁している」という自負において語り、それゆえシューレに批…

承前

貴戸理恵氏と東京シューレのやり取りをめぐっては、≪当事者≫というポジションが独特の役割を果たしており、これがお互いの主張する倫理性の参照項になっている。この問題は非常に広く複雑な射程を持ち、慎重な論考を必要とするが、ひとまずここでは、今回の…