党派(人の集団の傾向性)が複数あること

知性や肩書がご自慢の人たちが、いかに党派的にものを見るか。そして、「自分とちがう意見」と見なした瞬間に、どれほど簡単に人事的排除を行なうか。

社会参加や就労への支援を考えるなら、こういう面こそ取り組まないといけないはず。

といっても、「党派的であってはいけない」のではなくて、人はどうしても党派的でしかあり得ないのだから、

そこに留意しながら対応するスキルが要るし、そういう対応能力をはぐくめる環境が要る。

ところが現状は、どういう立場に立つのであれ、たった一つの党派性をベタに生きることしか許されていない。

それぞれの党派はそういうものでしかないし、対人支援にも各流派なりのベタな党派性が強烈にある。

支援業界全体をゆるやかに支配する思想があると言うべきだし、

それぞれの支援者個人が、強烈な個性と偏りを持つこともよく知られている。*1

ベタな党派性へのベタな順応しか許されず、党派性というテーマそのものを対象化して考え直すこと自体が想定すらされていない。

――こういう環境は非常にまずいし、継続参加がしづらい。生来的にそこが向いてる人にはいいが、「悩んだ時点で負け」になる。

これについては、たんに「多様性を肯定しよう」ではダメだ。*2

人の党派的あり方がこれほどまでに多様なら、継続的に集団参加をするには、その複数性を受け止めたうえでの対処を求められる。(宗教団体が乱立しているような状況が社会生活だ)

こういう複数性は、必ずしも嬉しいことではない。

「ここに合わなければ別を探せばいい」
「どこにも合わなければ自分で作ればいい」
とは取りあえず言えるが、

実際にはそんなことは、ほとんどできない。

「別を探せばいい」と言っても、自分の性向を無理にねじ曲げることは出来ないし、

ある集団に参加するのに必要な条件には、「履歴」というものがある。
それまでにどういう経緯を経てきたか。

「顔見知りが多い」「そこで働いてきた」「だから信頼されてる」というのは、数年~数十年かけて培うものだ。*3

「ここには合わない」と気づいても、別の場所に知り合いがいるわけではないし、そちらのコミュニティに必須の興味や教養を、自分が持っているわけでもない。いきなり河岸(かし)を変えたいと言っても、そういうわけにはいかない。

自分の側で興味や立場に変化が生じたなら、こういう悩みは深刻になる。

「ここが合わないから別のところに行こう」などと簡単には言えないし、移動した先も人の環境であって、気まぐれな参加者に簡単に心を開くわけではない。

党派(人の集団の傾向性)が複数ある、というこの圧倒的現実を、思想の言葉で語りなおした経緯もあるだろうが、往々にしてその語り自体が、また単一的な党派性に閉じてゆく。*4

「複数性」をさんざん語っていたはずの思想界隈は、いまや一つの固着した党派性しか生きていないように見える。(しかしそれは外から見てのことで、思想界隈が内ゲバと分派闘争をくり返しているのはご存知の通り)→これもまた「複数性」の現実だ。


*1:それゆえ支援者を選ぶときは、彼らの主観的誠意とは別に、「相性が合うかどうか」という決定的要因がある。合わなければ双方が努力しても無理。

*2:それもまた硬直した一つの党派的立場にすぎない。

*3:就労でも重要な判断基準のはず。

*4:私見では20世紀フランス思想の一部は確実にこのあたりの話をしていたはずだが、そこで名前の挙がる有名人を研究したはずの日本の論者たちは、なぜか党派性についてまったく論じられていない。彼ら自身が強固に硬直した党派性を生きているようにしか見えない。そうすると、有名な思想家の名を挙げて論じること自体が党派的詮索に遭うのでリスキーになる。